父は弁護士、大学は名門・慶應義塾大学の経済学部…。一見、順風満帆に見える人生の男はなぜ強盗殺人を犯したのか。1953年に世間を驚かせた「バー・メッカ殺人事件」、多くの女性たちから「こんな男がいたら匿ってやるわ」とまで言わせた甘いマスクの犯人・正田昭の人生を、新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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被害者は証券会社のブローカー、奪われた大金
1953年(昭和28年)7月27日21時ごろ、東京都港区新橋のバー「メッカ」のカウンターでビールを飲んでいた男性客の肩口に、血がポタリポタリとしたたり落ちてきた。驚いて上を見ると、天井にどす黒い赤のシミができている。店主がメッカの裏に住んでいた職人に頼み、物置になっていた天井裏を覗き込んだところ、軍隊毛布に包まれた男の遺体が横たわっていた。首と両足を電気コードで縛られ、全身には滅多打ちにされた無数の傷が。辺りは血の海だった。
通報を受けた警視庁愛宕警察の調べで、被害者は横浜市に住む証券会社のブローカーで、メッカに時々客として訪れる博多周(当時39歳)と判明。事件当日、証券を担保に銀行から41万円(現在の貨幣価値で約1640万円)を引き出していたが、その金が全て失くなっていることもわかった。
ほどなく、メッカの住み込のボーイで、事件発覚当日の夕方、「店の掃除が終わったから外出してくる」と告げたまま行方がわからなくなっていた近藤清(同20歳)が捜査線に浮上。さらに事件当日の昼間、近藤が常連客の正田昭(同24歳)と店で一緒にいるのを見たという目撃情報が寄せられる。警察は近藤と正田が事件に関与した疑いが濃いとしてこの2人と、正田の麻雀仲間だった相川貞次郎(同22歳)を指名手配。その後、相川は自首、近藤は逮捕され、彼らの供述から主犯は正田と判明したものの、その行方は杳として知れなかった。
正田が慶應大学出身のイケメンで、飲む打つ買うの三拍子が揃った男だったことから、「アプレ犯罪」の典型と称された本事件。最後に待っていたのは、正田に対する極刑判決だった。
犯人男の人柄
正田は1929年(昭和4年)、6兄妹の末っ子(兄3人、姉2人)として大阪市で生まれた。父親はカリフォルニア大学出身の弁護士だったが、正田が生後5ヶ月のときに病死。
その後は、日本女子大卒だった母親が横浜市内の高校で体育教師として家計を支える。母親は金に執着し、銀行の貸金庫の鍵と印鑑を肌見放さず持ち歩いていた。6人の子供を我が身一つで育てなければならないという責任感ゆえの行動だったが、長兄はそんな姿を極端に嫌い、母親に手をあげたばかりか、弟や妹にも暴力を振るうようになり、それは正田にも及んだ。母や兄、姉は一切助けてくれない。ただ怯えて暮らすよりなかった日々で、正田は「大人は薄情で嘘つきでエゴイスト」と絶望、家出を思い立つほど悩み苦しむ。
それでも、両親の頭の良さは子供たちにも受け継がれ、兄3人はみな一流大学に進学。正田自身も旧制高等学校の受験に二度失敗した後、慶應義塾大学経済学部予科への入学を果たす。ちなみに、このころ正田一家は長兄から逃げるように、神奈川県藤沢市に居を構えていた次兄の家に移り住んでおり、正田の学費も次兄が負担した。
長身でハンサムな顔立ちの正田は女性にモテて、慶應に入って間もない1949年夏、1歳下でダンスホールで講師をしていた19歳女性A子と知り合い恋仲となる。2人は互いに夢中になり、やがて結婚を約束する間柄となるが、正田には気がかりなことがあった。