子供の頃から歌うのが好きだった氷川だが、当時憧れていたのはポップス系の歌手だった。それが地元・福岡の商業高校で「芸能教室」という授業を選択すると、顧問が80歳近い教師で「わしは演歌しか教えられない」と言われ、請われるままに演歌を歌うようになる。最初は抵抗があったが、その教室のボランティア活動として慰問に訪れた老人ホームで、鳥羽一郎の「兄弟船」を歌ったところ、お年寄りが涙を流して喜んでくれるのを見て、演歌の魅力にのめりこんだという(『週刊現代』2008年3月22日号)。

 高校3年でNHK BSのコンテスト番組に出場すると、作曲家の水森英夫にスカウトされ、卒業後に上京した。ファミレスなどでバイトしながら水森のもとで修業を積むこと3年半。1年目に徹底した発声練習により声が安定して出るようになると、懐メロのなかでも東海林太郎や三橋美智也などの音域が広くて難易度の高い曲を歌いこなせるよう鍛えられた。

デビュー直後の氷川きよし

 ただ、デビューにあたっては紆余曲折があった。当時、若い男性の演歌歌手は売れないというジンクスがあり、彼を引き受けてくれるプロダクションがなかなか出てこなかったのだ。最後の最後にギター持参の水森とともに乗り込んだのが、前出の長良プロダクションであった。当時の会長・長良じゅんは氷川の歌声を聴くと、その場で「オレやるからな」と決めてくれたという(『AERA』2003年7月7日号)。

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 長良プロダクションからは昨年独立したとはいえ、こうした経緯があるだけに、氷川には演歌のおかげでいまの自分があるとの思いが強い。7年前のインタビューでは、《いま考えると、意見を素直に聞き過ぎた面もあるのかもしれません。たとえば、「演歌を歌ったら?」と言われて、「はい、わかりました」とか(笑)。でもそのおかげでいまの僕があるので、素直というのは悪いことじゃないなと、自分で自分を認めてあげています》と語っていた(『婦人公論』2018年9月25日号)。

2020年紅白リハーサルでの氷川きよし ©文藝春秋

葛藤の末にたどり着いた結論は

 昨年8月の復帰コンサートをその舞台裏も含めて追った映画『劇場版 氷川きよし KIYOSHI HIKAWA+KIINA. 25th Anniversary Concert Tour KIIZNA』(今年1月31日より公開中)で、氷川は休業しているあいだ「氷川きよしとは何か」とずっと自問自答していたと明かしている。おそらく彼は、自分が本当に進みたい方向とあわせ、ファンが求めるものも考えに考え抜いたに違いない。

 復帰コンサートの途中、ファンに向けて会場のスクリーンに映し出されたメッセージには《これまでの氷川きよしを置いていくのでもなく、KIINA.に生まれ変わるわけでもなく、すべて自分》との一文があったというが(『婦人公論』2024年10月号)、“すべて自分”こそ彼が自問自答の末にたどり着いた結論なのだろう。

2024年の紅白では白い着物に袴姿で歌唱(氷川きよしのインスタグラムより)

 思えば、復帰した紅白のステージでも氷川は、先述のとおり自分の持ち歌から演歌である「白雲の城」を選び、白い着物に袴という同曲定番の衣装をまといながらも、アイメイクをばっちり決めて中性的な雰囲気を漂わせた。その出で立ちも含めて、新たな氷川きよしはこれで行くのだという決意表明だったとも解釈できる。すべてを受け入れることで迷いを吹っ切り、昨年のツアー中に47歳となった彼は今後、どんなふうに年を重ねていくのだろうか。

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