編集者・写真家の都築響一氏が、「ピンク映画ポスター」の魅力を紹介する。
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ピンク映画ポスターの“雑草スピリット”
日本の映画産業のピークは1960年だと言われていて、この年、全国には7400館を超える映画館があった。以後だんだん館数が減っていくのだが、ピンク映画が生まれ、花開いたのは、こうした時期でもあった。1956年生まれの僕としては、ピンク映画の最盛期はリアルタイムではぜんぜんないし、メジャー5社製ではないだけに名画座にかかることもほとんどないまま消えていったピンク映画の、実際のフィルムを観る機会もあまりなかったけれど、なぜ本をつくるほど興味が湧いたかといえば、それはなんともてきとうであらっぽくて、刺激的でチャーミングなポスターにすっかりこころ奪われたからだった。
大手の映画製作会社にはそれぞれ意匠部があって、プロのデザイナーたちがしっかりしたポスターをつくってきたわけだが、極小プロダクションによるピンク映画は当然ながら予算も極小だった。
〈ピンク映画1本の直接製作費は300万円前後で、これにダビング料や編集費、映倫の審査費、スチール代やポスター代、プリント費用など諸経費を加えると、まあ、500万ほどになる。で、封切ったら、1000万ぐらいには確実になるんだ。ひとつの商品に500万の元手をかけて、それで500万儲けられるなんて商売は、そうないんじゃないかな。〉
(村井実『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』)
予算がないだけに、プロのデザイナーや印刷会社に発注することが不可能だったピンク映画のポスターの大半は、街場の小さな印刷屋のオヤジによってつくられていた。高尚なデザイン哲学なんてものはひとかけらも存在しない、かっこよさとは無縁の、しかし大胆きわまりない人工着色の毒々しい写真と描き文字。どんな映画なのかはだれもわからない、とにかくポスターで客を釣り上げるしかなかったピンク映画ポスターの数々。斜陽の日本映画界で、予算も時間もないなか、ただアイデアと情熱だけで闘っていった最下層の映画人たち。地元住民に白眼視されながらも扉を閉めようとしなかった田舎の映画館主たち。その雑草スピリットが、デザイナーすらいなかったであろうポスターの一枚一枚に宿っていると言ったら、言いすぎだろうか。