だが日韓併合後、朝鮮半島から軍都であった広島へ出稼ぎに来ている労働者は多く、徴用された人も含めると、当時数万の在日朝鮮人が広島に暮らしていたと推定されている。

 炭鉱など厳しい環境で働く外国人たちは、ときに名前もかえ、日本社会に溶け込んで暮らしていたが、見方を変えればそれは、「見えない・見えなくされていた人々」だった。その1人が、今あらたに「見えなくされた子ども」、孤児を、助けた。

「日本語しゃべったらあかんで」金山さんと一緒に船でソウルへ

 金山さんは決めていた。「朝鮮へ帰る」。そして、夫婦と相談し友田さんも一緒につれていくことにしたのだった。

ADVERTISEMENT

「日本語しゃべったらあかんで、言われてね」

 門司から釜山(プサン)へ向かう船内は、祖国へ帰る朝鮮人でごった返し、そのなかに日本人がいるとわかれば面倒な事態になることが予想された。金山さんは少年に、話していい朝鮮語をひとつだけ教えた。「アボジ」(お父さん)、これが友田さんが最初に覚えた朝鮮語である。

 金山さんはソウルの兄夫婦のもとに身を寄せた。兄も友田さんにやさしかったが、兄の妻や子どもからはつらく当たられた。長かった日本統治が終わった直後の時期である。やがて結婚することが決まった金山さんは兄の家を出、またもや友田さんも連れていってくれたが、金山さんの妻とも折り合いはよくなかった。

地下にいたとはいえ、爆心地にいた友田さんにも被爆の影響は大きく、ソウルで放浪生活を強いられていたときも血を吐いたり、帰国してからも長期間寝込んだりもした。友田さんは帰国後、被爆者健康手帳を受け取ることができたが、「金山さん」はもらっていないはずだ。数万をかぞえた外国人被爆者たちは十分な援護を受けられなかった(撮影=フリート横田)

金山さんの家で居場所がなくなった友田さんは、1人で家を出た

 嫌味を言われ、食事を減らされることも多々。そして子どもが生まれると決定的だった。友田少年に、もう居場所はなかった。人のよさは混乱の時代にはあだとなってしまったのだろうか。庇護者金山さんは、このころにはアルコール依存症に陥っていた。

 友田さんは1人家を出た。あとになって、金山さんが友田さんを探していたと伝え聞いたが、結局見つからず、彼は家族を連れ、母の実家のある北朝鮮へ渡ったらしい。ふたたび会えることはなかった。