筆者は友田さんにすぐに聞いた。投下直後、恐怖などなにか感じましたか。

「見ても怖いとか全然。なんでこんなんやったんか。そればっかり」

 少しも表情を変えずに答えた。長い月日が経ち、また高齢ということもあってか、友田さんはひとつひとつの出来事を語るとき、なんら感慨の言葉を挟まない。短く、ただ、淡々と語る。しかし以後彼が歩んだ半生そのものが、原爆と、それがもたらしたいくつもの課題を私たちに提示する。原爆投下以後の歩みがやや長くなるがご理解いただきたい――。

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原爆投下前に母と弟と撮った写真。韓国からの帰国時、祖母が健在なことが分かり、そこに保管されていた1枚(写真提供=友田典弘さん)

熱線で腕の皮が剥がれた女性の姿を目の当たりに

 生き残ったもう1人の生徒を見つけ、手をつなぎ校舎から飛び出すと、運動場にも黒く炭化してしまったたくさんの子どもたちの姿があった。誰一人、生き残った人はいなかった。あてどもなく街へ出て、比治山へと逃げていく人々。2人の子どもは必死にあとについていった。途中、女性の横を通り過ぎた。

「皮がむけて、両方の手にぶらさがって。顔の半分、やけどしていてね」

 女性は両手を前へ突き出し歩いていた。原爆投下後の街を描いた絵や証言に、同様の姿勢で歩く人々の姿が捉えられている。これは熱線により腕の皮が剥がれ、爪のところでかろうじて繋がっている人々が激痛をこらえて歩いている状況なのだ。女性を目にしたあたりで生き残った生徒ともはぐれてしまった友田さん(余談だが、この生徒はあとで似島の収容所で保護された)。

焼けただれた遺体を確認しながら、母を探したが…

 2日間、比治山の救護所で過ごしあと、爆心地近くにあった家へ向かった。広島の街は遺体にあふれていた。

「川に何百人という人が浮いていたよ。女の人も髪振り乱してね」

 元安川には水面が見えないほどに多くの遺体が密集しており、長い髪がたゆたっているのが見えた。家のあった場所にいくと建物は跡形もない。母の姿も、なかった。街に出て、至るところに積まれていた焼けただれた顔の遺体を1体1体確認して母を探していく。壊れたビルの地下、学校のプールの跡に寝泊まりしながら。しかし、ついに見つからなかった。

 このとき彼は、「原爆孤児」となった。