1945年8月6日、9歳のときに広島の爆心地で被爆し、家族を失った友田典弘さん(89)。在日朝鮮人の金山さんに助けられた友田さんはその後、韓国に渡るが、朝鮮戦争に巻き込まれてしまう。何とか生き延びて24歳で帰国し、現在は大阪で暮らしながら自身の体験を後世に語り継いでいる。

 友田さんは韓国に渡ったあと、どのような生活を送っていたのか。朝鮮戦争に巻き込まれながら過ごした、壮絶な日々とは——。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、友田さんの波乱の半生を取材した。(全2回の2回目/1回目から続く)

「命の恩人」ヤンさんの遺影を持つ友田さん(写真提供=友田典弘さん)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

凍傷で右足の指が壊死…ソウルで野宿をして過ごす

 子どもは物覚えが早い。2年ほどソウルで暮らすと友田さんは朝鮮語が話せるようになり、金山さんにつけてもらった金炯進(キム・ヒョンジン)という名をつかい、日本人であることを隠して1人きりでの路上生活をはじめた。言葉を覚えてからは、いじめられるとすぐに反撃した。「ブロックをもって喧嘩したこともあるよ」。

 ソウル南西部の永登浦(ヨンドゥンポ)の市場で雑用をこなしながら食べ物をもらい、野宿する日々。ソウルの冬は厳しい。氷点下10度を下回る夜もある。やがて凍傷になって右足の指の先は壊死した。

 生きるか死ぬかの日々のなかで、また出会いがあった。永登浦の市場の周りには、小さな台を出して物を売る人たちがいたのだが、

「闇市ね、そこで缶詰とかタバコを売っとった。そこの店を『見てくれ』言うてね、頼まれた。そうしないと持って(物を盗んで)逃げるのがいるんや」

野宿する友田さんを助けて、息子として扱ったヤンさんの存在

 闇市ではかっぱらいが横行していた。友田さんが真面目に雑用をしていたのを知っていた、ある店の娘と親しくなり、店番を頼まれた。これが縁になり、その母である「梁(ヤン)さん」にかわいがってもらうようになった。

 ヤンさんの夫はすでになく、子沢山で家は狭く、非常に貧しい母子家庭だった。それでもヤンさんは野宿する友田さんを家に引き入れ、一緒に食事をし、川の字になって寝た。異国からきた少年を、息子として扱ったのだ。

 だが友田さんはヤンさん宅も飛び出す。あまりに貧しいヤンさんの家に世話になり続けることに苦しくなったのだ。そうして漢江(ハンガン)大橋のたもとでふたたび野宿生活をはじめた。また、孤児に戻ったのだ。