「血が吹き上がっても死にきれない」絶望して自殺を試みたことも

 それでも望郷の念はおさえがたく、ついに絶望した友田さんは、包丁を腕に思い切り突き立てた。血が吹き上がっても死にきれない。ならばと、

「洗濯物を白くする薬ね。あれ飲んでぶあーっと血を吐いたりね」

 漂白剤での自殺も試みたが果たせなかった。死にきれず、日本への恋しさもおさえられない。そのとき、日本のさまざまな行政機関へ手紙を書くことを思い立つ。ところが友田さんはもうこのころには日本語の読み書きはできなくなっていた。代わりに書いてくれたのが、ヤンさんだった。ヤンさんの世代は日本語教育を施されていたのだ。

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 警察、役所、思いつくかぎり手紙を出し、うち1通が広島市役所に届いた。そして日韓双方の関係者による調整の末、友田さんは昭和35年、ついに日本へ帰れることが確定。原爆孤児となってから、15年の月日が経っていた。

 帰国が決まったことをヤンさんに伝えると、喜んではくれた。だがそのさびしそうな横顔に、友田さんは最後まで「オモニ」(お母さん)と呼びかけることはできなかった。ヤンさんの娘と気持ちが通じているのも感じていたが、彼女は見送りに来ることはなかった。2人とは、以後会うことはなかった。

ヤンさんの墓前にたたずむ友田さん。帰国後、友田さんはヤンさんの家族に再会した。しかし当のヤンさんは亡くなっていた。彼女は、「日本の息子」を晩年まで心配していたと家族から聞く。あの娘も亡くなっていた(写真提供=友田典弘さん)

帰国後、大阪の在日コリアンのコミュニティが迎え入れてくれた

――それからすでに、60余年が過ぎている。現在、友田さんは大阪に暮らしている。帰国後、焼け跡から復興した広島にはなじめず、やがて大阪へ移り、今日まで長く暮らしてきたのは在日コリアンのコミュニティが彼を迎え、助けてもくれたからだ。弱い立場の人が助け合うことで、1人の原爆孤児はここまで生きてこられたのだろう。

 職を得て、結婚して子供も生まれ、もう「孤児」ではなくなった。友田さんはそれでもあの時代の出来事を証言し続けることで、筆者のような者が今も話を聞きに訪れ、こうして「原爆孤児」という存在を現在も伝えることができている。

 終戦後の広島に、原爆孤児は6千数百人もいたと推定されている。友田さんに限らず、残された証言記録を読むにつれ、多くの人が十分な公助をうけられず、苦難の人生を歩んでいたことが分かる。同時に、多くの個人の力に助けられながら、あまりに苦しかった暮らしを言い残さなかった人たちも大勢いたことに思い至る。