「原子バクダンのしょうげきで目玉が飛び出てしまい…」広島戦災児育成所を訪れた昭和天皇は、何を目の当たりにしたのか

 最後に象徴的な場面を、過去のルポから引用してしめくくりたい。戦争をはじめたときの責任者集団のトップと、子どもたちが対面した場面。

 敗戦のあと、「神」でなくなった天皇は、戦災復興の視察のため全国を旅してまわった。いわゆる「巡幸」である。昭和天皇は戦争で傷付いた人々に直接ふれ、言葉をかけていった。読売新聞の皇室記者の筆致は、国民と親しく交流する血の通った「人間」としての天皇像を浮かび上がらせようとする。

 しかし終盤、次の場面では、ほとんど目撃したままの描写になってしまう。おそらく、それしかできなかった。昭和22年12月、広島港より南に約3km、似島にあった広島戦災児育成所を訪れた昭和天皇。友田さんと一緒に逃げた子も収容された似島である。

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 陸海軍を統帥した大元帥は自動車を降り、もっとも末端にいた小さな子どもたち、「原爆孤児」たちに近づいていった。子どもたちは手に数珠を持ち、僧侶の格好で整列していた。少し長いが引用する。

「陛下、広島の戦災孤児八十四名が、お迎え申し上げております。」

 と声をうるませて申し上げた。

「……………」

 陛下はかすかに瞳をお開きになった。

「これは昨年坊さまになった五人の子供たちです。こちらは原子バクダンで負傷した子供たちです。この大きな傷もそのときのものでございます。」

 とのべる山下所長のご説明を、陛下はただ

「ソウ、ソウ……」

 とうなずいて聞いておられた。

 なかでも原子バクダンのしょうげきで目玉が飛び出てしまい眼帯をかけ、頭じゅうにグルグルとホータイを巻いて保母さんにだかれていた●●(筆者による伏字)ちゃん(六つ)や、焼け野ケ原のかたほとりで死んだ母親の乳房をにぎりしめたまま泣いていたところをすくわれたというホータイ姿の●●ちゃん(三つ)の前では、陛下はじっと立ちどまられ、お祈りでもするように、いつまでもいつまでも頭をひくくたれておられた。

 お付きの者も、育成所の人たちも、思わず面をそらした。警護のお巡りさんたちも、グイッとそでで涙をぬぐっていた。(『天皇の素顔』小野昇 双英書房)

 戦争をはじめるというのは、この子たちに向かい合い、なにかの意義のために死んでくれと頼むことと同じなのだ。

現在の原爆ドーム(撮影=フリート横田)

参考文献:『原爆孤児 流転の日々』児玉克哉(汐文社)、『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』吾郷修司(新日本出版社)