「真っ赤な弾がぴゅんぴゅんと飛んできよった」朝鮮戦争に巻き込まれてしまい…
海を渡って5年が経過した昭和25年6月25日、友田さんはまた、突然、戦争に巻き込まれる。朝鮮戦争の勃発だった。北緯38度線を越えて侵攻してきた北朝鮮軍に韓国軍は不意を突かれて敗走、途中、進撃を食い止めるため漢江大橋は爆破され、数百人が犠牲になったとされる。この爆発音を耳にした友田さんの周囲も戦場になった。
「韓国の軍隊もだいぶ逃げたんよ。北朝鮮の軍から真っ赤な弾がぴゅんぴゅんと飛んできよったよ」
間近で北朝鮮軍戦車が発射した砲弾が爆発したり、米軍のB29の爆撃にも見舞われたりしたが、運良く直撃を受けることはなかった。激しい攻防が続き、戦線は激しく動き、北朝鮮兵士に遭遇することもあったが、殺されず、むしろ食事を与えてもらうことさえあった友田さん。貧しい兵士たちの目にも、市場の片隅で寝起きする孤児は、自分たちよりさらに弱い立場であるのが感じられたのだろう。
朝鮮戦争終了後、日本に帰国しようと行動を起こすが…
やがて戦争は終わり、友田さんはパン屋で働く口をみつけた。そのころ、偶然、あのヤンさんと再会する。一家は、カメラや時計を売る店を営んでいた。行き来が再開すると、休日には、ヤンさんの娘とよく出かけた。
美しさが近所で評判だった彼女は、友田さんと気が合った。一緒に映画を見にいったり、酒を飲んだり。やっと、生活が落ち着こうとするとき、頭をもたげてきた思い――。15歳の日に見た夢を友田さんは忘れることはなかった。夢枕に立った母。
「お母さんが『日本に連れて帰るよ』といってくれた」
日々つのるのは、故郷広島、日本への帰還だった。思いは強くなるばかりで、時間をみつけては外務省や市庁などに何度も足を運んで陳情したものの、日本人であるという証明はできず、またこのころ日韓に国交はなく、取り合ってはもらえなかった。
ヤンさんのところから時計を3つほど持ち出して、それを売った費用で海を渡ろうとしたことさえある。果たせず、引き換えしたとき、ヤンさんは警察へ届けなかった。「家族だから」。