原爆によって両親など養育してくれる保護者を失った子供たち。学童疎開で農村地域へ行っていて本人は一命をとりとめたものの、両親は市街地に留まり死亡してしまったケースも多かった。
原爆は、生き残った者にも以後、長い長い苦しみを与えた。友田さんも疎開していたが、原爆投下直前に広島に戻っており、偶然の遅刻と地下室への滞在が重なったため、かろうじて生きのびたのだった。
靴職人の在日朝鮮人・金山さんと共同生活を始めた理由
混乱のなか、保護者のいなくなった9歳児を守ってくれる人は誰もいなかった。たった一人でさまよい歩いて2週間。おびただしい遺体を収容していた市役所の脇で、「よう生きとった」と声をかけてくれた人がいる。原爆投下前、友田家の2階に間借りしていた靴職人の男性。在日朝鮮人だった。
「金山さんね。ええ、43、44歳くらいのね」
彼だけが9歳の少年を見捨てなかった。友田さんの手をひき、御幸橋のたもとの運動場にバラック小屋を建て、共同生活をはじめる。金山さんはどこからか籾を調達してきて、友田さんはそれを一升瓶に入れてつき、2人で炊いて食べ、夜は川の水を沸かしたドラム缶風呂につかる日々。
道ひとつ隔てた市電車庫を見やると、いつも煙があがっていた。男も女もなく、遺体を焼いているのだ。風向きによってはその匂いがバラックに漂った。少年がいつも恐れていたのは、「いつか金山さんがいなくなる」こと。彼が用を足しに行くときさえ、離れなかった。
当時、数万の在日朝鮮人が広島に暮らしていた
そんな暮らしを続け、月が替わった9月17日、大型の「枕崎台風」が被爆地を襲う。原爆で壊滅した広島の被害は甚大で、死者・行方不明者は2000人を超えたと言われる。バラックは吹き飛ばされ、大雨のなか放り出された2人。
避難先を思いついた金山さんはずぶぬれのまま橋を渡り、少年は彼のベルトをぎゅっと握ったままついていった。2人が頼ったのは、比治山のふもとで暮らす夫婦。彼らもまた、在日朝鮮人だった。
友田さんは当時、
「(他の在日朝鮮人に広島の街で会ったことは)ぜんぜんない」
という。平和な日々、子どもに彼らは見えなかった。