登校中にローファーの中が血だらけに…

――変色しているのに気づいた後、症状はどう変化していったのでしょうか。

柊子 中学生の間は、痛いけど我慢できる程度でした。体育の授業は休みがちだったけど、一人で歩いて学校には行けていましたね。

 でも、高校に上がってからは症状がひどくなる一方で。紫色に変色した部分は、どんどん広がっていく。最初は親指と人差し指の間に小さい“あざ”がある程度でしたが、それが指2本分くらいにまで広がっていって。そして、少しの刺激でそのあざから出血するようになったんです。

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 なるべく足に負担をかけないように、高校には途中まで親に車で送ってもらい、そこからはスクールバスで通っていました。

 でも、症状がひどくなってからは、スクールバスから降りて教室に向かうまでの、ちょっとの距離を歩くだけで出血してしまうようになって。ひどい時は、ローファーの中が血だらけになってしまうこともありました。

 

――靴の中が血だらけ……?

柊子 雨の日に防水じゃないスニーカーを履くと、濡れてグチョグチョになるじゃないですか。出血で、あんな感じになるんです。学校に救急車を呼んだこともありましたし、出血がひどくて輸血したこともありました。

 それと同時に、どんどん痛みも強くなって。高校1年の途中からは、痛みで左足を動かせないから、松葉杖をつくようになりました。それでも痛みに耐えられなくなって、高2の途中からは車椅子で登校していましたね。

毎晩、眠れないほどの激痛と闘っていた

――生活も大きく変わったのではないでしょうか。

柊子 そうですね。松葉杖を使うようになったときも、「移動が大変だな」って思っていました。でも、車椅子となるとその比じゃなかった。特に通っていた高校には階段しかなかったから、教室が2階や3階にあるときは、友達や周りの先生に車椅子ごと持ち上げてもらわないといけない。それがものすごく心苦しかったです。

――その頃、家族や友達とはどのように接していたのですか?

柊子 家族は、私が足を痛がっているのはもちろん知っていたので、毎日学校の送迎をしてくれていました。ただ、病気について話すことはなかったですね。

 同じように、友達とも病気の話はほとんどしませんでした。でも、変に気を遣われたり、特別扱いされるのは嫌だったから、それがありがたかったです。

 

――日常生活もままならないような痛みとの闘いは、きっと大変でしたよね。

柊子 もう、ずっと痛いんです。座っていようが、横になっていようが痛い。毎晩痛みでなかなか寝られなくて、気を失うように寝て、そして翌朝は痛みで目が覚める。

 痛み止めは常に飲んでましたけど、それも気休めにしかなりません。痛みもあざの状態もどんどん悪くなり、高校後半には、左足の一部が“壊死”しているような状態になっていました。