自主映画の横のつながり

――特別出演の自主映画関係者も、見ていると「あの人だ」みたいなのがたくさんいましたけど、PFFとかで知り合った方々ですか?

緒方 そうですね。やっぱり石井組で助監督を一生懸命やっていると、「石井のところに新しい奴隷が入ったみたいだよ」みたいなことは伝わるので、それが長崎組(注2)にも伝わって。PFFの前ですね。それで山本政志(注3)とかに伝わっていったんじゃないですか。横のつながりはありましたよね。

 PFFはその後になるんですけど、その頃、自主制作と同時に自主上映というものが社会の中で認められて広がっていくんじゃないかという予感があったんです。つまり、映画というものは全興連に入っている劇場で、窓口で1000円ちょっと払ってやる映画だけじゃなくて、ホール上映やもっと小さな会場、ライブハウスみたいなところで8ミリをやるということが広がって、プロもインディペンデントも関係なくなっていくんじゃないか、という。石井さんはそういうことを言ってましたし、僕もそういう予感はあったんですね。大森さんも亡くなる前に言っていたけど、自分たちで興行をやる、そういうレールがやがて敷かれていくだろうと信じて、『暗くなるまで待てない』以降は作っていたそうです。石井さんも、日活で『高校大パニック』を撮った後に、こんなことをやっていたんじゃ駄目だと。だから、自主映画が制作だけじゃなくて、興行の部分でも客を勝ち取ることが自分らでできるんじゃないかという幻想はありましたね。

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――石井さんが日活版『高校大パニック』の後に8ミリに戻った時、『突撃!博多愚連隊』は8ミリだけれど商業映画として興行をちゃんとやろうとしたとおっしゃっていましたね。

緒方 大森さんも『オレンジロード急行』で、あれはものすごく持ち上げられて、ものすごく叩かれた映画なんですよね。その後、どうしようか迷った時に、「まだ8ミリはある」と思ったらしいんです。自分はプロとしてのローテーションピッチャーにはなれなかったけれども、8ミリという自主制作の世界でやっていければいいと思って、取りあえずお医者さんの大学に行こうと。その時に、ATGの佐々木史朗さんが大森さんのところに行って、「今、何をやってるんだ?」「今、学校に行ってます」「じゃあ、それを映画にしようか」ということで、『ヒポクラテスたち』になっていくんです。でも、自主上映は結局無理でしたけどね。そんな甘いものじゃないんですけれども。79年、80年あたりでは、興行形態、上映形態も含めて、革命ができるんじゃないかということをちょっと思ってましたね。

©藍河兼一

――そういう意味でも横のつながりは大事だった。

緒方 そうですね。その人たちとスタッフを横断したり。実際、僕は『アナザ・サイド』(注4)の応援助監督をやったり、長崎組を手伝ったりしていた。だから、撮影所の中、あるいは町場の中での、プロデューサー、監督、演出部がいてという動きとは別に、インディペンデントの中での演出部だったり制作部だったりというのが必要になってくると思っていましたから。

――『白菜』のクレジットでは山本政志さんがすごく大きく出てましたね。

緒方 あれは、山本がエキストラで来ていろいろ手伝ってくれて、お堀に飛び込んだんですよ。それを石井さんが映してなかったんですよね(笑)。しかも山本は足を脱臼して、そのまま救急車で病院に行ったんですよ。バカじゃないの? と思ってましたけど(笑)。 

――その功績で(笑)。 

緒方 そうそう。それだけです。

注釈
1)ダビング 台詞、効果、音楽をミックスして映画の音響を作る作業。
2)長崎組 長崎俊一監督の組。当時石井聰亙監督とは日大芸術学部の同期だった。
3)山本政志 映画監督。代表作:『闇のカーニバル』『ロビンソンの庭』『水の声を聞く』など。
4)『アナザ・サイド』 1980年16ミリ、山川直人監督作品。

次の記事に続く 『爆裂都市』の現場で助監督・緒方明が石井聰亙(岳龍)監督を面罵した理由「映画監督というのは撮りたいものをただ撮りたいと言っているだけでいいわけ?」