だが、荻野目のプロダクションの社長は、そういう売り方はやめてくれ、「そうでないと写真は引き上げる」と強硬姿勢を崩さなかった。
私は決断した。写真集の帯や新聞広告には「荻野目の愛人が撮った写真」とは謳わない。しかし、パブリシティーでは「それらしいことを匂わせる」という条件を荻野目に提示した。
そこでも、荻野目はほとんど口を開くことがなかった。その写真が彼女の愛人が撮ったものだという言質も、私には与えなかった。
撮影者の設定、印税の扱い、遺族への対応…
出すと決めたが、一番の問題は写真集に載せる撮影者を誰にするかということだった。荻野目の愛人の名前を使うことはできない。
悩んだ末に、「写楽」とした。浮世絵師・東洲斎写楽には今でも謎が多いといわれるから、謎の撮影者という意味を込めたつもりだった。
もう一つ困ったのは、撮影者に払う「印税」をどうするかということだった。K氏の奥さんが受取人になるのだろうが、もし、奥さん側が「写真を出さないでくれ」といってきたらどうするか。先方に手紙を出したが返事は来なかった。
社の顧問弁護士たちと相談のうえ、写楽名義で印税を供託しておこうということになった。写真が出た後、遺族側から申し出があれば、それで対処する。
写真集のタイトルは『SURRENDER』(放棄)。荻野目がつけた。なかなか意味深である。だが、講談社初のヘア付きヌード写真集(ヘア・ヌードという言葉はまだなかった。それは私が週刊現代へ移ってから、私が考えたネーミングだから)であるため、会社の上層部はなかなか出版の許可を出さなかった。
ようやく初版10万部、定価2800円と決まった。
すぐに、私が昔からよく知っている週刊文春の花田紀凱編集長に会いに行き、荻野目の愛人が残した写真集を出すので、記事にしてくれないかと頼んだ。
花田編集長は、「面白いじゃないか」と、文春で取り上げることを約束してくれた。