蓮實 しかし、小中さんの場合、誰もがみんないわゆる「前衛的」な作品ばかり撮っていたときに、いわゆる「商業映画」的な作品を堂々と撮っておられたことが、かえってわたくしの記憶にはっきりと刻みこまれておりました。

——それは光栄です。黒沢清さんは「蓮實先生の授業を受けてガラリと人生が変わった」と言っていました。映画の見方が変わったし、映画というものが生涯かけて取り組む価値のあるものだと分かったと。僕にもすごくよく分かる言葉です。立教大学の「映画表現論」はいつ頃からやっていらしたんですか? 

蓮實 1970年に始めたのですから、もう50年以上も昔のことになります。その時は非常勤講師になっていたと思う。わたくしは大学紛争が終わった翌年に、立教大学専任の教官ではなくなっていた。そして「映画表現論」の授業を始めた1年目に三島由紀夫が自殺した。授業中にそういう話が聞こえてきまして興奮した、という衝撃があったのをはっきりと記憶しております。

ADVERTISEMENT

――先生の授業は映画の勉強で単位が取れるということで、学年の初めはすごくたくさんの学生が押しかけました。毎回先生は最初にテストをされていましたね。これが半分も答えられないようだったらこの授業を受けてもしょうがないと学生に言って。先生はどういう学生に残ってほしいと思っていたんですか?

蓮實 いわゆる世の中の流行りとは別の、「これが映画だ」というものに触れてほしかった。ですから、黒沢(清)さんが姿を見せたときは本当に驚きました。この人は映画を自分のものにしてしまっていると思いました。しかも、リチャード・フライシャーというわたくしが絶対的に50年代の作家として高く評価していたハリウッドの監督に、彼も狂っている。これは大変な若者だと興奮しましたね。

黒沢清の8ミリホラー映画を上映

――黒沢さんは「映写機を教室に持ってきて自分の映画を授業の中で上映したのは、すごくウキウキするような体験だった」と話してくれました。その時のこと、蓮實先生は覚えていらっしゃいますか?

蓮實 はい、鮮明に記憶しています。最初に見た彼の撮った作品は、確か1階ごとにエレベーターが上がったり下がったりして、ドアが開くと目の前に死人が横たわっているという映画でした。しかし、エレベーターの中から撮ってドアが開くと、結局どれも同じ階に見えてしまう。どうやったら上下するエレベーターの中から見ていて、扉が開くとそのつど別の階に死体が転がっているという雰囲気が出るのかと、黒沢さんと一緒に考えた記憶があります。