いわゆる「難民の物語」として想像するような、被害者としての女性像を描くこともやめようと決めていました。自分とは関係のない他人事として同情するのではなく、観客が自分のことのように心を通じ合わせられる、そういうキャラクターにしたかったのです。
これは可能性を信じることについての映画
――アメリカにやってきたドニヤが、中華街にあるフォーチュンクッキー工場で働くという設定はどのように生まれてきたのでしょうか?
ババク・ジャラリ プロデューサーが、面白いところがあるといって私たちを実際のフォーチュンクッキー工場に連れて行ってくれたのが始まりでした。初めて工場に見学に行った時、昔ながらの古い機械を使い3、4人のスタッフがものすごい勢いで働く光景が実に美しかった。そして共同脚本家のカロリーナ(・カヴァリ)が「ドニヤをここで働かせよう」と提案しました。これは可能性を信じることについての映画だからと。クッキーのメッセージは大抵取るに足らない内容ですが、中には深く考えさせるものもある。ドニヤは色んな願いや欲望を封じ込めながら自分の可能性を模索している人です。そんな彼女が未来を予言するメッセージを書きクッキーを通して外に発信する。そしていつしか自分も一歩を踏み出すんです。
――先ほど話にあがった監督の長編第二作『Radio Dreams』は、アフガニスタンのロックバンドがアメリカにやってきてイラン語で放送するラジオ番組に出演する、という話でした。過去作から度々アフガニスタンの人々の話を描かれてきたのは、イランにいた頃から彼らの生活を身近で見てきたからなのでしょうか?
ババク・ジャラリ 私が初めて社会のなかで「他者」として認識したのがアフガニスタンの人々だったんです。先ほどお話ししたように、私が子供の頃のイランにはアフガニスタンから来た人々が多くいて、小さいけれど彼らのコミュニティが出来上がっていました。けれど実際には、イラン社会のなかでアフガニスタンの人々を好意的に扱うムードはほとんどありませんでした。そのことに、子供心に混乱したんです。なぜ彼らをイラン人と同じように扱わないのか。不思議に思い親に尋ねると、イラン人の多くがアフガニスタン人に差別感情を抱いていることを認め、これは本当に馬鹿げていることなんだ、と教えてくれました。
このことが原体験となり、私はボーダー(境界線)というものに強い関心を抱くようになりました。国と国とを分ける国境のように、自分と他者との間に境界線を引き、ふたつを分断するものとは一体何なのか。私が住んでいたのが、トルクメニスタンとイランとの国境近くの街だったことも影響しているかもしれません。そこにはアフガニスタンからの移民だけでなく、カザフスタンやロシアから来た人々も大勢いて、とてもコスモポリタンな場所でした。
私がロンドンの映画学校在学中に初めて製作した短編『Heydar, an Afghan in Tehran』(2005)は、イランのテヘランに暮らすアフガニスタンからの移民についての話でした。続く長編第1作『Frontier Blues』(2009)もトルクメニスタン人とペルシャ人が出てくる作品。そして『Radio Dreams』はアフガニスタンからやってきたロックバンドと、ラジオ局で働くイラン人たちの話でした。なぜ人は自分とは違う他者としてある人々を退けてしまうのか。子供の頃に抱いた疑問が自分の創作活動の出発点だった気がします。




