なぜ浦佐が選ばれたのか?
『上越新幹線工事誌』によると、浦佐駅は越後湯沢・長岡間約62kmのほぼ中間に位置していて、在来線との乗り換えに便利、また小出町・六日町の両町へは国道17号が通っていて短時間で到達できる……などといった新幹線駅設置の根拠が書かれている。
『工事誌』は公的な記録のようなものだから、ここに書かれていることがすべて真実とは限らない。ただし、おおむね30kmごとに駅を置くという原則は上越新幹線に限らず、これに則れば魚沼盆地のどこかしらに駅が置かれることは確実だった。
魚沼盆地の中心的な町には、六日町や小出があった。特に只見線と上越線が乗り入れる要衝だった小出では、町を挙げて新幹線駅の設置を求めたという。
ただ、小出は魚野川と駅との間のスペースが狭く、新幹線駅が新たに乗り入れる余地がほとんどなかった。新幹線と在来線の乗り換え駅という前提を踏まえれば、小出はやや適していなかったというわけだ。
「この駅は角さんのおかげ」は方便だった?
そうした事情もあって、スペースに余裕があり、それでいて越後湯沢~長岡間の中間地点の浦佐に白羽の矢が立った。
こう考えるのが、最も妥当な結論なのではないかと思う。小出か六日町かという論争はあったにせよ、どちらも角栄センセの地盤であることは変わらない。その中で、角栄がムリヤリ浦佐に新幹線を停めさせた、などというのは無理筋といっていい。
それでも地元では長らく「この駅は角さんのおかげで新幹線がね」などと言われてきたという。それは、六日町でも小出でもなく、浦佐が新幹線駅になったことへの鬱憤を納得させるための方便のようなものだったのかもしれない。
そしてそもそも、上越新幹線が東北新幹線とともに国内3番目の新幹線に選ばれたのは、紛れもなく角さんのおかげ。
だからまあ、浦佐駅前の角栄像、「角さんのおかげ」というのもまた、本質的には間違いではないのかもしれない。いずれにしても、真相はヤブの中、である。



