ちなみに、この本の原題は「チンダルレ コ ピルテカジ(つつじの花が咲くまで)」で、1996年に韓国で出版された。この本を原作として、韓国の公共放送KBS2がドラマ化した。金正日をはじめとして北朝鮮の幹部が実名で登場するもので、権力内部のドロドロとした欲望、軍部の暴走、金ファミリーの秘密資金作りの実態が暴かれていた。そして、最後には、主人公(申英姫)と夫が英国から韓国に亡命する場面も出てくる。

 原作者の申は、ドラマ化に同意したものの北朝鮮に残された家族が危険になる可能性があるとして、制作の中止を求める仮処分申請を出した。これは棄却され、ドラマは1998年1月から全8回シリーズで放送された。私はこのドラマを新聞社の記者として駐在していたソウルで、リアルタイムで見ていた。公共放送が、北朝鮮の内情をこんなに踏み込んで描けるのかと興味深く見た記憶がある。

 放送が始まると今度は北朝鮮側から、「悪意のある反共和国(北朝鮮)劇であり、ドラマを中断しなければKBS2を爆破して制作陣を殺害する」との脅迫声明が発表され、皮肉にもさらに注目を集める結果となった。

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「人違いのようです」

 高容姫について語り草になっているエピソードがある。

 それは万寿台芸術団の日本公演でのことだったという。公演は前評判も高く、多くの観客を集めた。その時、日本に残っていた大阪・鶴橋に住む容姫の親族が、芸術団の中に彼女がいると知って楽屋を訪ねてきた。しかし彼女は会おうとしなかった。すでに最高指導者との関係があるため、日本の親族に接することを避けていたようだった。

 いぶかしく思った親族は、今度は万寿台芸術団が東京で行った公演の際、彼女に近づき「どうして無視するのか」「私たちを忘れたのか」と問い詰めたという。

 容姫は「人違いのようです。平壌には私とよく似た帰国者がおりますので、国に戻ったら伝えます」と表情を変えないまま、あくまで別人を貫いた。

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 このいきさつを、芸術団に同行していた監視役の政治指導員から聞いた金正日は、「よくやった」と賞賛したという。しかし、北朝鮮で警戒対象だった帰国者であることに変わりはなく、父・金日成は最後まで容姫を息子の正式の妻とは認めなかった。