「400勝投手」金田正一のライバルとして、しのぎを削った

 当時、長谷川はこう語っている。

「投球というのは、力をもって押し込むのではない。相手の力を利用するのだ」

 彼は勝負勘というのだろうか、相手打者のクセを見抜く力を持ち、少ない球数で打ち取ることを最良の結果とした。その一方で負けることが大嫌い。決して逃げることなく、打者に立ち向かっていくことを信念とした。彼はこう語っている。

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「周りに流されたら、終わりだという抵抗心があった。弱いチームだとか、貧乏なチームだとか、とにかく逃げ場を作りたくなかった」

 まだ戦後の混乱期が続いていた1950年代。長谷川と同期で国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団した大柄な投手がいた。同じ時代に、同じグラウンドで投げた日本歴代最多の400勝投手・金田正一(国鉄→巨人)が、長谷川のライバルになった。共に愛知県出身。無類の“負けず嫌い”。そして二人ともチームが弱かったため“孤高のエース”と呼ばれた。

長谷川は「400勝投手」金田正一のライバルでもあった ©文藝春秋

 この両雄の対決で世間が沸いたのは、長谷川が30勝、金田が29勝を挙げた1955年のことだった。勝敗に絡んだ6回の直接対決では、4勝2敗で金田に軍配が上がったものの、年間の成績では長谷川が上回った。

 あの頃は“打撃の神様”と謳われた川上哲治(巨人)や、物干し竿みたいな長尺バットで長打を放つ“ミスタータイガース”の藤村富美男らを打ち取る長谷川の姿が、カープファンとしてたまらなくカッコ良く見えた。

 これを人間が自然に持つ感覚で書くならば、「柔能(よ)く剛を制す」であり、チームとしても「弱き者が強き者を下す」という図式だったからである。それが被爆都市ヒロシマのファンとして、限りなく心地よかったのだ。

 しかし金田との違いが出はじめたのは、57年に長谷川が右肩を痛めたときからだった。この故障によって、長谷川は以降の6年間で43勝に留まり、念願の200勝まであと3勝に迫っていたのに、63年に引退の決断をした。

 現役14年間での登板は621試合(1年平均で約44試合)。なんと、いまでは考えられない3276回を投げたのだ。これを平均してみると、故障後の6年間を含めても1シーズンで約234回を投げたことになる。

 彼は“小さな大投手”と呼ばれたが、いま振り返ってみると、同時に“小さな鉄人”でもあったのだ。長谷川は引退後、投手コーチの経験を経てカープの第5代監督(1965-67)に就任した。

永久欠番の打診もあったが、断った

 63年に長谷川が現役を引退してから、すでに60年以上が経過する。いまでもカープのエース史は、その源流として長谷川を抜きにしては語れない。「いまカープのエース番号は?」と訊くならば、おそらく誰でも「18」と答えるだろう。長谷川は、その番号を背中に付けたカープ最初の投手だったのである。その「18」について、彼の長男(純さん)はこう話す。

「父は球団から18番を永久欠番にするという話を断ったと話していました」

 その理由は、こうだった。