広島の街には「良平さん」がたくさんいる

「思い出と言えば、列車の通路で寝たことでしょうか。疲れていたせいもあって、体を覆った新聞紙の“暖かさ”が身に沁みて有難く、忘れられません」

 そんな時代背景のなかで、チームを背負って立ったエースの存在というのは、単にカープ史の一ページの一投手の物語に留まらなかった。彼は、原爆で廃墟と化したヒロシマの街の復興物語の主人公でもあったのだ。子どもの頃から体力に恵まれなかった長谷川は、自身の知恵と修身。人並み外れた“攻める気持ち”。そして日常のたゆまぬ鍛錬によって、カープ投手の礎を築いた男だった。

 あの頃の信じられないような球団の貧困に、文句一つ言わず耐え抜き、小さな体で球界の大打者たちに臆することなく勇敢に立ち向かった姿は、一面焼け野原と化したヒロシマの街にとって希望の光でもあった。いまでも広島の街で“良平さーん”と呼ぶと、2、3人の60~70代の男性が振り返る……と言われる。もちろん、私の家内の従弟のなかにも“良平さん”がいる。

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 もし今のカープ投手のなかで、「長谷川良平の物語」を知らない人がいたとしたら、誰か彼の“不屈の投球魂”を教えてあげてほしい。彼は、その後しばらくの間“ミスターカープ”と呼ばれた。

次の記事に続く 「大谷翔平」でも「沢村栄治」でも、「金田正一」でもない…「背番号のないプロ野球選手」から“史上最高の投手”に上り詰めた男の正体

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