「本人はあと3勝で200勝に届かなかった。新たに育つ18番に白星を重ねてほしいと願ったからでした」
その後、白星は佐々岡真司、前田健太らによって着々と積み上げられていった。ところが2016年に渡米した前田のあと、しばらくこの番号が使われることはなかった。はっきり言えば、そういう投手が現れなかったということである。ところが2019年。この番号が佐々岡真司監督(当時)の強い薦めもあって、この年のドラフト1位入団の森下暢仁に託されることになった。こうして長谷川を起点とした“カープの18番”は、いまも綿々と受け継がれている。
「千里の行も一歩より始まる」。彼は“カープのエース論”を語るとき、その最初のバトンを手に持った投手として大切な役目を担った。
チーム勝利数のうち、4割を稼いだのが長谷川だった
長谷川が投げた14年間のカープの成績は、1シーズンの例外もなく、Bクラスだった。最下位が3回、5位が7回、4位が4回。つまり“優勝”の2文字などは、ファンが軽々しく口にするようなものではなく“夢のまた夢”だったのである。そうなると、エースの価値は相対的に高くなる。私の子どもの頃のイメージで書くならば「カープはいつも敗ける。しかし長谷川が投げるときだけは別の話」という単純な図式になった。
その頃は、長谷川が投げる試合だけ、街のいたるところから大音量のラジオの実況放送が聞こえてきた。おそらくラジオの持ち主が、その状況を周囲の人たちに伝えたかったのだと思う。この状況は、数字の上からも実証できる。長谷川は1955年から3年連続で20勝以上を挙げた。特に全盛期と言われた1951~58年の8年間は、チーム全体の4割以上が長谷川の勝利だったのである。
カープが敗けるのは、日常的なこと。どうということはない。しかしカープが勝つと、街中がパッと明るくなる。実は時代は流れても、その広島の街の傾向は、いまでも変わっていない。今に生まれ経済的にも恵まれた読者は、驚くことなかれ。当時のカープ球団は、給料の遅配、宿舎の食料もままならなかった。遠征のための移動は、2等の夜行列車。エースの長谷川でも、座席や通路に新聞紙を敷いて寝た。長谷川は引退後にこう述懐している。
