今年末の刊行に向けて、脚本家の高田宏治氏のインタビュー本を作成中だ。
インタビューは五十時間に及んだが、改めてフィルモグラフィを俯瞰して、気づいたことがある。それは、高田が女性のドラマを丁寧に描いてきたという点だ。高田がホームグラウンドとしてきた東映京都において、それは珍しい。
時代劇に始まり、任侠映画、実録やくざ映画と、東映はめまぐるしく路線を変更してきたが、大半は女性が添え物的な立場だった。「緋牡丹博徒」シリーズやスケバン映画など女性主役の作品もあるが、それらは彼女たちのヒロイックな活躍に主眼が置かれており、男性の代替的な存在として描かれている感がある。
今回取り上げる『妖艶毒婦伝 般若のお百』は、高田ならではの女性活劇といえる。
江戸時代に「毒婦」「悪女」とされてきた女賊「妲己(だっき)のお百」を題材にした作品だ。ここで高田が、お百のピカレスクな活躍以上に、焦点を当てて描いている点がある。それは、なぜ彼女が「毒婦」とならざるをえなかったのか――その哀しい背景のドラマである。物語の前半は、その掘り下げに徹した。
幼い時に母親が無理心中を図って生き残ったお百(宮園純子)は、浅草の一座に拾われ、芸人として人気を博す。だが、その美貌を見染めた権力者の誘いを断ったため、座を追われる。彼女を救ったのは、盗賊の新九郎(村井國夫)だった。この二人が結ばれる芝居がいい。新九郎は自身の不始末のために母親を死に追いやっており、お百と似た心の傷を負っていることが明かされる。そして愛への渇望が、二人を情愛へ向かわせる。双方の心情を繊細に捉えた描写により、互いの想いが強く伝わる場面となった。
だが、新九郎は仲間の裏切りに遭い捕縛、お百の目の前で無惨に殺されてしまう。そして、ここからお百は復讐の鬼に変貌する。前半で新九郎への想いがしっかりと描かれていることで、いかなる手段を使ってでも復讐を果たそうとするお百の姿に説得力がもたらされることになった。この辺りの構成も、素晴らしい。
佐渡金山に流されたお百は、周囲を誘惑して籠絡。島の人間たちを巧みに操りながら裏切者を抹殺、島抜けをしてのける。ここも、「彼女の武器は美貌しかない」ということが伝わる描き方をしているので、ただの扇情的なお色気を超えた、凜としたカッコ良さすら感じることができた。
こうした高田の女性観は、やがて『鬼龍院花子の生涯』から『極道の妻たち』に至る、一九八〇年代の五社英雄監督とのコンビで東映の主流を形成するようになっていく。



