憲政史にその名をきざむ“五日市憲法”
五日市憲法とは、明治時代の帝国憲法制定に先立つ“私擬憲法”のひとつだ。
自由民権運動が盛り上がりを見せたその時代、あちこちで心ある(というか知識がある)人たちが集まって自主的に憲法案を起草していた。雑な言い方をすれば、「いよいよ日本も憲法を制定するという。ならばこういうのはどうだろう」と一般の人々が考えたもの、だ。全国で少なくとも40以上の私擬憲法があったという。
五日市憲法もそのひとつで、昭和40年代に五日市の名主の家の土蔵から発見された。実際に制定された大日本帝国憲法と比べると国民の権利に手厚く、その一方では天皇大権がかなり強大という特徴があった。まあ実際に帝国憲法制定にあたって五日市憲法が参考にされた形跡はなく、数ある私擬憲法のひとつに過ぎない。
むしろ重要なのは、明治初期の五日市には私擬憲法を検討するだけの知識層がいたし、また彼らの活動を支えるだけの経済力もあったということではなかろうか。
いまのように鉄道が通っているわけでもないし、テレビも電話もネットもない。それでも奥多摩の山中の入口まで、憲法はいかにすべきかという課題意識が共有されていたのである。
やはりそれは、江戸時代から長らく物資の集積地として繁栄を誇ってきた町だからこそ、なのだ。当時の五日市がそれだけの存在感と経済的な規模を有していたことだけは間違いない。
そして、そんな明治の初めから150年。いまでは木炭の商いもなくなったし、100年前に五日市線が開業したこともあってイカダで材木を運ぶこともなくなった。いまやこの街の位置づけは、奥多摩のレジャースポットのひとつといったところだ。
ただ、少なくともこの町は、ただの東京の端っこの小さな谷口集落などではなく、なるべくして終着駅になった、それだけの町なのである。
撮影=鼠入昌史
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