30歳で不妊治療を始め、33歳で初めて妊娠したものの流産。35歳で2回目の妊娠後も流産となり、特別養子縁組について調べ始めた。裁判所の許可を得て、実の親と暮らせない子どもが血縁のない夫婦と法律上の親子になる制度だ。紀行さんに話を向けると、当時は「血縁のない子どもを迎えて愛せるか、自信がない」との返事だった。
36歳で3回目の妊娠をしたが、順調に育っていた子どもは妊娠7カ月で死産となった。絶望の底に突き落とされ、「努力で思うようにならないこと」を思い知った。死産の後は、以前のようには治療を続けなかった。「自分たちの卵子や精子でどこまで追い求めるのだろう。治療の結果を待ち続ける保留の人生はもう嫌」と感じ、熱意も維持できなくなっていた。
「断る理由なんてない」と夫は養子縁組の背中を押してくれた
42歳で子宮を全摘した後、紀行さんに「子宮がなくなっても子どもを育てたい気持ちは変わらず残る」とつづった手紙を渡した。真摯に思いを伝えたいとき、池田さんが手紙をしたためることを紀行さんはわかっていた。
妻の強い思いを受け止めた紀行さんのその後の行動は目を見張るほどの速さだった。養子縁組の実現に向けて積極的に情報収集し、数多くの民間あっせん団体の中から、「子どもの福祉のため」という理念を掲げて養子を迎えた後のフォローも手厚い団体を選んで申し込んだ。
ある日、あっせん団体から「ご紹介したいお子さんがいます」と電話が入り、翌朝には回答するよう言われた。急に重大な決断を迫られて池田さんが弱腰になっていると、紀行さんは「断る理由なんてないよね」と背中を押してくれた。
長男は生後5日で池田家にやって来た。やがて電車や車に興味を持つようになった。紀行さんは「息子がいないときに電車や消防車が通ると、『見せたかったのに! もったいない』と思った」と振り返る。「自分の世界が広がったと感じました。子どもがいなかった生活が思い出せないくらいです」。そこには、養子縁組に不安を抱いていた頃の姿はなかった。