映像に合わせて解説やセリフをつける「活動弁士」、略して「活弁」。無声映画の時代に人気を集めた職業だが、音声のついた映画(トーキー)が普及するにともない失職し、いまや国内に数十人しかいないとされる。
それでもその芸は細々とではあるが継承されてきた。今春、活動弁士として初めて芸術選奨の文部科学大臣賞新人賞(大衆芸能部門)に選出された、坂本頼光さん(46歳)。デビューまでの道のりや、下積み時代について聞いた。(全3回の2回目/続きを読む)
◆◆◆
“売れないバンドマンみたいな”青春時代だった
――活動弁士としてのデビューはいつだったんですか?
坂本頼光さん(以下、坂本) マツダ映画社の「蛙の会」(活動弁士の研究会。詳細は#1参照)に参加したあと、しばらくはお茶濁してまして。それが2000年に鶯谷に東京キネマ倶楽部という1年365日、毎日活弁を見せるレストランシアターがオープンして、私はそこでデビューしたんです。
でも、そんなに順調じゃないわけですよ。そのうちにキネマ倶楽部もだめになっちゃって。私らはもう放浪の民ですわな。あとは自分でバイトでカネをつくって上映会を開くしかないという。もう売れないバンドマンみたいなもんですよ。
――バイトはどういうことをされてたんですか?
坂本 最初はセブン-イレブンのバイトとか、ルノアール(喫茶店)でウェイターをやってたりしたんですけど、前後して役者の付き人になったんです。その役者が山本竜二という……これもちょっと説明が難しい……。
ピンク映画でおなじみだった俳優に弟子入り
――当時の若い男性のあいだではAVやピンク映画でおなじみだった俳優さんですよね(笑)。映画に絡めていえば、アラカンこと嵐寛寿郎(『鞍馬天狗』などで知られる往年の映画スター)の親戚だとか。
坂本 そうそう。『鞍馬天狗』を研究会でやることになった時に会いに行ったのがきっかけで。竜二さんの撮影に随行して、キャメラを回したりしていたんですけれども。私には活弁の師匠はいなかったけど、現場で色々と教わったという意味では竜二さんが師匠ということになりますね。
そんなこんなで結局、目鼻がつき出したのは20代半ば過ぎてからですよ。そのころには活動弁士も仕事としてなりかけてましたけど、何だかんだでまだバイトはしてましたから。

