こうした積極性を買われたのか、橋本は高田から第一次UWFに誘われ、移籍の話が進んでいた。旗揚げのひと月ほど前には、高田が橋本を連れて前田日明のもとを訪れ、挨拶もしたという。

移籍のチャンスを逃した理由は「遅刻」?

「あとから聞いたけど、橋本選手は正式に移籍の話をするという会合に寝坊して行けなくて、それでウヤムヤになったという話だよね。そんな先輩からの大事な契約話を寝坊してトチるというのは、さすが橋本選手という感じだけど、今考えると意図的なエスケープだったのかもしれないね。

UWFに行けば、またいちばん下からやらなきゃいけない。でも残ってれば、うるさい先輩たちがいなくなって、道場や寮なんかでは過ごしやすくなるし、プロレスラーとしても上に行きやすくなる。橋本選手は頭がいいから、そういう考えがあったと思うね。

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新人レスラーなんてのは、要は場所の取り合いなんだよ。辞めていくヤツがいれば、それだけ自分の陣地が広くなる。実際、寮の部屋だって、最初は二段ベッドが3つあって、そこに6人で寝てたけど、1、2週間もしたら辞めるヤツが出てきて広く使えるようになった。そういう経験をして、この世界は場所取りだな、ということが体に刷り込まれるんだよ」

先輩の大量離脱で平穏な日々がやってきた

1984年4月の第一次UWF旗揚げと、同年9月の長州力ら維新軍の大量離脱は、新日本にとって大ダメージとなったが、まだヤングライオンだった橋本や蝶野たちには、むしろ快適な日々が訪れたという。

「上のうるさい先輩たちがいなくなったからね。高田さんがいた頃は、俺たちが道場でなんとなく練習をしてると、突然やってきて「お前ら、何やってんだ!」みたいな感じで怒られながら、スクワット2000〜3000回やらされたりしてたからね。そういう怖い兄弟子たちが、UWF移籍や維新軍の離脱でいなくなった。あとは陰険な小杉さんと後藤さんが残ってたくらい。後藤さんは酒飲んだら大暴れするから、いちばん危なかったんだけどね(笑)。