カンカンカンカン――いつまで経っても遮断機が上がらない「開かずの踏切」は、なぜなくならないのか。鉄道ジャーナリストの杉山淳一さんが解説する。(全2回の2回目/最初から読む)
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自動車も列車の運行頻度も少ない、そんなのんびりとした時代は踏切への不満が少なかった。しかし、戦後の日本の復興と経済成長、モータリゼーション、都市の人口集中によって、じわじわと踏切の通行量が増え、踏切が交通の障害になり、事故を誘発する存在になっていった。
国は、いつ踏切を問題視したのか。起点は昭和36(1961)年の「踏切道改良促進法」の制定だ。
当時、全国の踏切は7万1070カ所あり、そのうちの遮断機と警報機を備えた踏切は1割の約7000カ所しかなかった。遮断機も警報器もない、標識だけの踏切が約6万カ所、警報機だけある踏切が約3000カ所だ。踏切事故件数は5000件を超えていた。そこで「踏切道改良促進法」で、問題のある踏切を運輸大臣と建設大臣が指定し、5年間の期限までに改良方法を策定するよう定めた。
この法律の下で何が起きたか。遮断機も警報器もない踏切のうち約3万8000カ所が廃止され、残った踏切については警報機や遮断機の整備が進んだ。いったん警報機だけ設置した踏切も昭和50(1975)年頃には遮断機が追加された。
しかし、踏切の減少傾向は、2010年代にいちど停滞している。



