元子爵の二女として生まれ、7歳で中宮寺に
一条尊昭尼 平松時冬・元子爵の二女として生まれ、大正14(1925)年、7歳の時、中宮寺に入って剃髪・得度した。昭和6(1931)年、斑鳩小卒業後、京都尼衆学校に学び、同11(1936)年卒業。同13(1938)年、京都・泉涌寺の頂授会で灌頂(頭頂に水を注ぐ仏教儀式。指導者の位を授かるなどさまざまな種類がある)伝授を受けた。同16(1941)年、中宮寺副住職に進み、同19(1944)年、一条実孝・元公爵の養女となり、門跡の地位に就いた。
中宮寺 法隆寺の東側にあり、聖徳太子が母・穴穂部間人皇后のために建立したと伝わる。約1200年前、天平19年の「法隆寺資材帳」に既に「中宮尼寺」の名が見えている。中世以降、歴代王朝の皇女が入る尼寺で明治22(1889)年、門跡号を許された。同寺には東洋の「考える人」として有名な国宝・弥勒菩薩像(木彫、白鳳時代)や同・天寿国曼荼羅(飛鳥時代)などがあり、美術愛好家に親しまれている。
門跡とは、文部省宗教局(当時)が1926年に出した『門跡制度及び御由緒寺院の沿革』などによれば、はじめ寺院における僧侶の門葉、門流の意味で用いられたが、のちに寺院の資格となった。室町時代以降、次第に親王や摂関家の子弟らが出家し寺に入る、特定の資格を持つ寺院(門跡寺院)やその寺院の住職を指すようになった。
江戸時代に幕府による「禁中並公家諸法度」で制度が確立。親王らが門主となる「宮門跡」や摂関家師弟の「摂関門跡」などの種類がある。皇女、王女、摂関家の女子らが尼となって入る寺は「比丘尼御所」と呼ばれた。門跡制度は明治維新後、公式には廃止されたが、皇室や華族とのつながりから格式と独特の文化が保たれたまま、「比丘尼御所」は「尼門跡」と俗称されるようになった。
中宮寺(聖徳宗)は歴史的にも法隆寺と深いつながりがあり、圓照寺(臨済宗)、法華寺(元真言律宗、現光明宗)と合わせて「大和三門跡」と呼ばれる尼寺。江戸時代までは「斑鳩御所」とも呼ばれた。格式が高く、皇女か華族上位でなければ門跡になれないため、一条家の養女になったのだろう。「弥勒菩薩像」は正式には「(木造)菩薩半跏像」。古典的微笑の典型として知られる。
自信にあふれているようにみえた彼女が、一体なぜ?
「事件」の10年前、1944(昭和19)年5月19日付の大毎に、尊昭尼が中宮寺門跡になったことを報じる小さな記事が載っている。「本年26歳である」と。戦後も何回か雑誌でその名前を見ることができる。「文藝春秋」1951年2月号では中宮寺から奪われた「誕生仏」(釈迦の誕生時の姿を現した仏像)について、同誌1952年6月号では文化財の発掘調査に関して随筆を書いている。
「事件」の1年前の「淡交」1953年11月号では、同じ「大和三門跡」の1つ、法華寺門跡の久我高照尼らと対談。修行の厳しさを吐露し、参拝客らの変化に苦言を呈す姿は堂々として、古寺の門跡としての自信にあふれているように感じられる。そんな彼女がどうしてーー。
(つづく)




