1954(昭和29)年11月、世界的にも有名な奈良・斑鳩の古寺の門跡(もんぜき=皇族・華族の一族で仏教の法統を継ぐ寺の住持)だった35歳の女性、一条尊昭(新聞によって「一条尼」の表記もあるが「尊昭尼」「一条門跡」で統一)がある日突然、その座を捨てて姿をくらました。茶道の弟子である16歳下の大学生の男性と親しかったことから、新聞、雑誌などは「人間性に目覚め法衣を捨てた」「法灯の恋」などと書き立てた。
当時、本人たちは恋愛関係を否定したが、その後、彼女はその男性と結婚。「事件」は恋愛スキャンダルとして歴史に定着した。一方、メディアの取材攻勢は激しく、彼女は短歌でもジャーナリズム批判を展開した。彼女の行動が示したものは何であり、それはどのように伝わったのか。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の3回目/はじめから読む)
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手記で激しいジャーナリズム批判
尊昭尼に関する新聞報道がいったん途切れた後も、雑誌はまだ過熱しており、「中宮寺門跡の恋 法灯千三百年の封建制に抗議して」(「週刊読売」12月12日号)、「中宮寺門跡尼の恋 伝統に反逆する明眸禍」(「週刊サンケイ」同日号)をはじめ、「法よさらば! 恋の尼僧妻の座に」(「婦人倶楽部」1955年8月号)などと取り上げられた。
1954年12月27日付大和では「県下十大ニュース」の1つに選ばれた。この年1954年は日本の独立から2年。11月ごろの新聞紙面では、中国大陸からの帰還船や自由党(当時)の内部抗争、造船疑獄と保全経済会事件の裁判がニュースに。いまも映像化が続く怪獣映画『ゴジラ』の第1作が公開された。
「婦人公論」1955年2月号は「尼僧とて人間です」のタイトルで、尊昭尼だった本名・平松陽子の手記を掲載した。「親しき友へ」の副題が示すように、友人からの手紙の返信の形をとって心情を吐露している。それまでの記事との重複を避けて要点をまとめるとーー。




