尊昭尼の恋実る」2人で新生活を…

 さらに6月16日付東京読売朝刊は社会面3段で「尊昭尼の恋実る 中川君と大阪で新生活」と報じた。

【大阪発】昨年11月、人間として生きるため法灯1300年の名寺、奈良の中宮寺門跡の座を捨て故郷に旅立った美貌の尼僧、一条尊昭さん(35)はその後、熊本県玉名市の実姉のもとで、ただの平松陽子に返ってひっそりと世の風評を避けていたが、愛人・中川浩君(22)の実父=大阪府守口市=の肝いりで15日、実父宅に入り、浩君とささやかな新生活の第一歩を踏み出した。今秋中に晴れて結婚式を挙げることになった。

 

 陽子さんは「宗教心を捨てたわけではありません。これからの生活については、できることなら1人の教師として茶や生け花を教えていきたく思います」と語った。なお浩君は学校を辞め、いま職探しに奔走している。

2人で新しい生活を始めた(大阪毎日)

 その後の2人については雑誌の報道がある。それらによれば、元尊昭尼は正式に結婚して中川阿紀子となり、茶華道と書道の出張教授などで生活を支えた。夫の中川青年は大病をして勤めていた役所を辞めた後、妻が旧知の書道家に頼んで夫を弟子入りさせた。夫もよく励んでめきめき上達。

「事件」から10年後の1964年10月27日付大朝朝刊には「励まし合った十年 書道で“俗界”を生き抜く 元中宮寺門跡 日展へおしどり入選」の記事が載っている。妻は初入選。夫は3度目の入選だった。その後2人は奈良市内に居を構え、夫婦ともども書道の教授などをして平穏な生活を送ったという。

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日展に「おしどり入選」(大阪朝日)

 消息は「週刊新潮」1985年3月14日号の「姉さん女房列伝」が最後のようだが、2013年に刊行された日野西光尊・中宮寺門跡著『法燈護り続けて:写真で綴る入寺五十年の歩み』の「歴代門跡の方々」には「元一條尊昭尼(ご存命)」「お美しいご門跡として嘱望されましたが、昭和29(1954)年暮れに還俗されました」とある。

人間らしくありたいと願った

 尊昭尼辞職後、中宮寺の門跡は他の寺院の住職が兼務した後、その後も元華族が継いでいる。「事件」の後も門跡制度が公に論議されることはなかったが、他の門跡寺院ともども、幼少時から仏門に入る不文律は消えているようだ。そうした流れからも、『女性編集者』が言う通り、尊昭尼に「解放者」の側面があったことは確かだろう。

 そして、そうした行動に走らせた動機の1つに、本人も当時は意識しなかった「恋」があったことも。本人は「週刊現代」1962年5月20日号で、僧侶で作家の寺内大吉の問いに「結婚のために(寺を)出たのではございません。尼寺での人間関係や経済的な問題、ことに尼僧の生活に強い矛盾を覚えたからです」ときっぱり答えている。人間らしくありたいと願い、さまざまな条件が重なって出奔に至った。彼女をそうさせたのは、普通の人間の心から生まれた、やむにやまれぬ衝動だったのだろう。それこそが歴史を動かす原動力だ。

【参考文献】
▽三枝佐枝子『女性編集者』(筑摩書房、1967年)
▽日野西光尊『法燈を護り続けて:写真で綴る入寺五十年の歩み』(中宮寺、2013年)

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