1954(昭和29)年11月、世界的にも有名な奈良・斑鳩の古寺の門跡(もんぜき=皇族・華族の一族で仏教の法統を継ぐ寺の住持)だった35歳の女性、一条尊昭(尊昭尼)がある日突然、その座を捨てて姿をくらました。茶道の弟子である16歳下の大学生の男性と親しかったことから、新聞、雑誌などは「人間性に目覚め法衣を捨てた」「法灯の恋」などと書き立てた。彼女の行動が示したものは何であり、それはどのように伝わったのか。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。主人公は新聞によって「一条尼」の表記もあるが「尊昭尼」「一条門跡」で統一する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の2回目/続きを読む)
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大阪毎日(大毎)の11月25日の初報には尊昭尼本人と接触した記事がある。見出しは「“何も聞かないで…” 九州行き 三等車にしょんぼり」で広島発だ。
熊本に住む母の元へ向かう車中、ひとりきりで
一条門跡は17日ごろから大阪・阿倍野筋(現大阪市阿倍野区)の実弟(平松時忠とは別)方に滞在。24日午後7時40分、大阪発の下り急行「阿蘇」の三等で、来阪中の実姉と熊本県玉名市の実母宅に向かった。25日午前2時7分、広島駅で本社記者が車中に門跡尼を訪ねると、5両目の三等車の片隅に薄紫の法衣に墨染めの衣をまとって、一人ぽつねんと物思いに沈んでいた。さっとハンカチで顔を覆い、「気持ちが乱れていますので、何も聞いてくださいますな」と体を硬直させてインタビューを拒否した。
「地元でいろいろうわさが飛んでいるようですが」と記者が中宮寺の檀家の騒ぎなどを伝えると、やっと口を開いて「どんなに書き立てられても仕方がありません。寺の後始末については、私には何も異存がないので、どのようにでもしていただきたい」と、ほとんど聞き取れないほどの小声で語った。さらに「相手の学生は?」の問いにも全く口をつぐんで、再びハンカチで顔を覆ってしまった。車内にそれらしい大学生は見当たらず、午前2時13分、列車は広島駅を発車した。
昔の日本の鉄道列車は運賃や設備の違いにより一等、二等、三等に分かれていた。大毎の記事は「三等」を強調して尊昭尼の“落ちていく”姿を印象づけようとしたのだろう。文章から“駆け落ち”を疑っていたことが分かる。どこでその列車をかぎつけたのか。



