“ただの師弟関係”を主張、「次第に耐えられない気持ちに」
私は精神的に疲れていた。中川さんとの関係もただ師弟の交際だけで、「恋愛逃避行」などと一部に誤り伝えられたことは心外です。幼くして仏門に入ったので肉親の愛情には飢えを感じていた。たまたま中川さんが茶華道に熱心なところから師弟の間柄として交際していた。近衛老門跡とは肉親の叔母に当たる間柄で、意に満たないこともあったが、個人的にはうまくいっていた。
戦後は寺内維持費として年間4000円(1954年時点で現在の約2万7000円)だけではとてもやっていけず、財政の立て直しのため、茶華道をはじめ別院、女学院の設立など、各種事業計画が実施されたが、それとて資金難や人材の関係など、種々困難を極めた。ここ1~2年はどうやら落ち着きを見せ、発展途上にあったが……。
(昭和)19年、住職になり、いろんな事業の面で外部との折衝が多く、煩雑になるにつれ、次第に耐えられない気持ちになっていた。そうして疲れ切っていたところに寺と中川さんの両親宛てに投書が来た。誤解を招いたことは不徳の至りだが、投書の内容がいかにも抽象的で、どうして(相手が)中川さんと分かったかと疑問を抱き、割り切れぬものを感じた。寺の内外の対人関係で意に満たぬものがあって次第に自信と希望を失い、このままの気持ちでいては、かえって寺の不名誉と感じた。投書があってからは、私が寺を出れば丸くおさまるのではないかと考え、寺を出る決意をした。
私に落ち度や間違いがあったかもしれないが、自分も人間として反省してきた。寺にはすまないと思うが、寺の将来に希望が持てなくなり、性格的に我慢しきれなくなった。熱烈な信仰心からではなく、思慮分別もつかないころから入門したことも運命と諦め、感情の抑制に努めてきた。現在も尼僧制度そのものには疑問を感じていない。心身ともに静養をとったうえで考え、肉親とも相談してこれからの身の振り方を決めたい。門跡という大きな責任者の立場にある私が寺を出たことは申し訳なく心苦しい。老門跡は寄る年波でもあるし、病後なので案じている。門跡制度は民主的ではないが、資格の問題で身分のある者から出るわけで、その点心配です。寺を出た者が寺に未練があるという意味でなく、ただ発展を念じている。
心情を詠んだ2つの短歌
手紙は「今西社長さま、これがいまの私の心境です」と述べ、最後に「今西社長さまへ」として短歌を2首詠んでいる。
つかれはて 遠くきつるを かなしくも 訪(おとな)う人の足しげくして
いずくに居 住むもかわらじ み仏をわれがいのちとひたいのりつつ
1首目は激しい取材攻勢をやんわり批判し、2首目は門跡を辞め、寺を出ても信仰心は持ち続ける決意を表わしたといえる。同じ紙面では「万感胸に秘めて」の見出しで、尊昭尼が熊本県玉名市で10年ぶりに実母と対面したことが報じられ、2人が写った写真では、「笑い取り戻した尊昭さん」の説明通り、笑顔を見せている。
これらから分かるのは、尊昭尼の出奔はおそらく実姉が来るのに合わせて計画的だったことと、正式な辞表提出でメディアに情報が漏れたことだ。
尊昭尼に関する新聞報道はここでいったん途切れる。しかし……。
(つづく)




