興味深いのは同じ日付の大阪朝日(大朝)にも「一言『疲れた』 『阿蘇』車中の尊昭尼」が見出しの同乗記がある。記者に現在の心境を問われ、「何も考えない。静かに暮らしたい」と答えている。記事は「岩国発」。つまり、大毎の記者が広島駅で尊昭尼を“つかまえて”話を聞いた数時間後、今度は岩国駅で大朝記者が探し当てたことになる。一歩先着した大毎は、記事通り、手で覆った顔を背けている写真を掲載したが、大朝にはその場の写真はない。
尼僧の生活が嫌になって
ただ、大朝は相手の男性に話を聞いている。「師弟の関係だけ 何度も会った」の見出しで、「N」の仮名になっている。
当のN青年は24日夜、自宅で次のように語った。
きょうも会ってきたところだが、尊昭尼と僕の間は師弟関係以外に何もない。9日夜、お寺を出られたことを聞き、いろいろ探して、やっと大阪の門跡の弟さんのところで会うことができた。寺に内紛もあるし、尼僧の生活が嫌になり、法衣を脱いで還俗したいという話だった。
このころはまだ朝日、毎日は東京と大阪でかなり紙面の内容が違っていたようだ。大毎、大朝と同趣旨の記事は東京毎日(東毎)、東京朝日(東朝)にもあるが、扱いはずっと小さい。読売(東京)の25日付朝刊は社会面コラム「いずみ」で扱っている。
だが、東毎には大毎にない「情にやぶれたか」という尊昭尼の養父と、「相談してくれたら…」との中宮寺執事長、中川青年の母親と大学の厚生係長の談話が載っている。さらに当時は「阿部艶子」を名乗っていた評論家、三宅艶子の次のような談話も。
「生まれた時から尼に定められているのではやりきれない」「オリの中に閉じ込めた」
「いままでが不自然」
美しい人だったということを何かで読みましたが、自分の意思で仏門に入ったというのならともかく、“家柄”とやらで生まれた時から尼に定められているのではやりきれません。いままでの生活が不自然です。世間に通じた人ならば、こんな場合、もう少し利口な解決策を考えるかもしれないが、尊昭さんの場合、その行為の批判以前の問題として“御門跡さま”というオリの中に閉じ込めた周囲の人たちの反省がまず必要でしょう。
この段階で当の2人はいずれも恋愛関係を否定したが、既に「事件」のイメージは作り上げられていた。25日付夕刊で大毎は「法灯の恋? 二人は語る」として尊昭尼と中川青年の言い分を社会面トップでまとめた。それによれば、大毎の記者は25日午前5時31分、西宇部から門司まで再び「阿蘇」に“箱乗り*”して一問一答を交わした。
*箱乗り=新聞記者などが取材対象者の車に同乗して取材を行うこと




