同じ日付の大朝も「下関発」の尊昭尼との車中一問一答を掲載。大毎にないのは、「格式ばった窮屈さで、私もこの生活を続けていくのに、もう将来の希望と自信を失いました」と述べている点。また、中川青年とのことは「全く誤解されて迷惑しています。学生の方とは奈良で別れてきましたが、今後、別に会おうとも思いません」と“恋”自体を否定している。

熊本に着いたニュースに「長い苦悩の果ての決断」の見出し(大阪毎日)

「修行が足らん」「邪念や」…

 奈良の地元紙「大和タイムス」(大和)=奈良新聞の前身=は一拍遅れて26日付で報道。1面囲みで「本社社長 今西丈司」署名の「一条門跡さん」の記事を載せた。今西は1946年創刊の同紙の初代社長で、尊昭尼とは知人同士。出奔直前にバスの中で会い、その後電話でも話したが、出奔は「想像もつかなかった」と書いた。尊昭尼が映画や婦人雑誌を見ていたことを挙げ、「現実的な世の歩みに多分に興味を持っておられたようだ」と指摘。

地元紙・大和タイムスは社長が「一条門跡さん」を執筆

「一女性の肩にはあまりにも重すぎた経済的負担と、性格的な弱さからこれに疲れ果てて、別の世界に逃れたいような気持ちが現実的な性格と一つになって」「今度の家出の動機になったかもしれない」と書き、「日頃の言動や性格からして、19歳の少年相手の恋愛一本で割り切ってしまうのは、門跡さんにあまりにも気の毒だと思う」とした。

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 同紙は1面コラム「國原譜」も取り上げ「いま尊昭尼を責めようとも、また同情しようとも思わない。ただ、そっとしてあげたい気がする。しかし、『見世物化した大和の尼寺』『当人の自由意志を無視したような世襲制の門跡』については、別の角度から検討しなければならないだろう」と述べた。社会面もほぼ全面展開。

いまも師として門跡を慕う “手を握った事もない”」との中川青年のインタビューや、「世間の目はこう見る」が見出しの奈良の識者の談話などが見える。尊昭尼のインタビューも熊本の地元紙・熊本日日新聞と共同通信熊本支局発で載っているが、そこでは「中川さんとのことも原因の一つ」と初めて認めている。

 しかし、それよりも目立つのは社会面トップの橋本凝胤・薬師寺管長と久我高照・法華寺門跡の対談。「佛(仏)の道を忘れた一條(条)尊昭尼」の見出しが付いている。

 この中で橋本管長は尊昭尼を厳しく非難している。「本人も十分自覚して仏門の生活に入ったわけや」「それがこうなったのは本人の自覚が足らんから」「そもそもこの問題は修行に専念せんやったから。邪念やな」「尼になるまでの修業が足らんかった」「昔なら不浄門から追放するところや」……。

大和タイムスの座談会では橋本凝胤・薬師寺管長から厳しい批判も

「昭和の怪僧」とも呼ばれた橋本は、1978年に亡くなるまで宗教界の一大権威だった。これが当時の仏教界の表向きの“総意”だったのだろう。対して高照尼は「道を志している人たちに悪い影響がなければ、と念じます」と答えた。大和の報道ぶりを見ると、尊昭尼の出奔については知っていて、何らかの事情で報じなかった可能性もあるように思える。