江戸時代は浦和より賑わっていた

 そうした中でも、駅前から西に延びる駅前通りの商店街だけは、いつまでも住宅地に変わらず商店街のままで続いてゆく。ふつう、駅前通りの商店街の類いは駅から離れるにつれて賑わいを失い、店も減ってゆくものだ。

 

 それが、蕨駅前の商店街はいつまでも。約1kmにわたって、歯抜けはあるにしても商店街が続いてゆく。行き着く先は国道17号、中山道だ。

 そしてこの現代の大動脈の一筋駅側には、旧中山道も通っている。江戸時代には浦和よりも賑わっていたという、中山道の蕨宿。人口密度日本一の蕨市のルーツが、旧中山道と蕨宿なのである。

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 現在の蕨市内に初めて鉄道が通ったのは、1883年のことだ。ただ、そのときには駅は設けられていない。蕨駅開業は鉄道開通から10年遅れている。蕨宿が鉄道から1kmほど離れていたことが理由なのだろうか。

 

 蕨駅が開業すると、駅と宿場を結ぶ駅前通りが整備され、この道を中心に現在の蕨の市街地が少しずつ形作られていった。

 ただ、すぐに住宅地に変貌するわけではない。まず、蕨は工業地帯になってゆく。

蕨でつくられた意外なモノ

 江戸時代末期から、現在の蕨駅東側にあたる塚越では、双子織りと呼ばれる綿織物の生産が盛んになっていた。それが明治以降もさらに発展し、明治末から大正初期にかけて全盛期を迎える。

 お隣の川口が鋳物業の町だとすれば、蕨は機業で存在感を示したというわけだ。

 

 綿織物は戦後衰微してしまうが、変わって戦中から大規模な工場の進出が続く。東京からの距離の近さ、また駅周辺に田園地帯が残っていて広大な用地の確保が容易だったことが理由だろうか。

 

 そうして進出した工場のひとつに、日本車輌製造の工場があった。つまり鉄道車両の工場だ。

 日本車輌の工場は蕨駅の北側、現在の芝園団地のあたりにあった。この工場では、1964年に開業した東海道新幹線の0系電車を製造している。

 
 

 跡地の団地の一角に、「新幹線電車発祥の地記念碑」も置かれている。蕨は成人式だけでなく、新幹線の発祥の地でもあったのだ。