「しっかり先生の言うこつば聞いてから、また戻ってこにゃんたい」と慰めました。入院費は店で出しますが、それはあくまでも立て替え。娘の借銭に加算されて、どんどん増えてゆく仕組みになっていたからねえ。
娘たちがうちで買う化粧品は、練り白粉と言って首につけるもの、それと眉墨。お客がついた娘は高い化粧品を買っていきますが、売れない娘は化粧品を買えんわけ。そういう娘がよく、「お金を貸して」と言ってきましたが、私は貸しませんでした。「貸しても、あなたたちは全部払いきらんでしょう。お金が20円しか無かときは20円の品を買うていきなさい」と諭して。
品物だけ持って行く娘もいましたね。「おばさん、すぐ後から金ば持ってくる」と言ったまま持って来ん。
戦争前、当時では珍しく蓄音機を持っていたんです。それを遊廓の娘に貸したところ、いつまでも戻してくれん。「あんたいつ戻すとかい」と聞きましたが、なしのつぶてで。後からわかったことですが、質屋に持ち込んでいたわけ。それで「何ヵ月質屋に置くつもりなのかい」と言ったら、2、3ヵ月経ってようやく戻してくれた。その蓄音機も(昭和20年〈1945〉)8月10日の空襲で燃えてしまいました。
賑わう娘は、店で次から次に新しい着物を作ってもらいよった。
「おばちゃん、また着物ば作ってもろうたつよ」
と言って、見せに来てくれました。「ほんなこつ、おばさんが言うごつ(本当に、おばさんの言う通り)」て言ってね。律儀な娘はお菓子でも何でも、お客さんに貰ったから分けてあげると言って、うちに持ってきよった。その娘は漬物が好きだったので、うちで漬けた菜っ葉やらを渡してやると喜んでいました。
大阪まで逃げた娘もいた
売れない娘は、田舎の阿蘇や(菊池郡の)大津の店に売り飛ばされることがありました。そぎゃんときは、「行ってみないと、わからんばい。とにかく頑張らんといけんよ。金を貰えればそれで良かわけだからね」と励ましました。頑張る娘には、私は煙草でも何でも取り置いてあげました。皆、煙草をのんでいましたからね。
彼女たちの楽しみは花札。お客さんとしているうちに覚えるんですね。三味線の稽古をする娘もおりました。