子どもたちで、麻原彰晃が収監されている東京拘置所まで歩いて行ったこともあった。しかし、みんなが行くというから、ただ従うだけの義務感で行っただけだった。実際、拘置所の建物を見ても、何か特別な感情を抱くことはなかった。

「オウムの子」として集まったり、道場に足を運んだりする一方で、自分もオウムの被害者ではないか─という感情が募っていったのもこの頃だ。

 住民運動を目の当たりにしながら、高校の友達に見つからないように隠れて道場に通うことを、なぜ続けなければならないのか。どうして、友達にウソをつかなければならないのか。自分の意思でオウムに行ったわけではないのに、いつまで、こんなことを続けなければならないのか。

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 加奈さんが特につらかったのが、過去を偽らなければならないことだった。高校の友達との会話の中で、小学校のときに流行ったことが話題になると、ついていけないことがしばしばあった。自分に話が振られると、適当にごまかした。「まわりの子は普通に過ごしていたのに、親のせいで自分は普通に過ごせていなかった」との思いを強くしていった。

 かといって、加奈さんにはどうすることもできなかった。ぶつけようのない怒りを胸のうちにためていくばかりだった。

社会時の常識と自分の非常識

 高校を卒業後、加奈さんは都内のコールセンターに就職する。

 ここで初めて、加奈さんは、社会の常識と自分の非常識とのギャップに苦しむことになる。

 これまで、オウム以外の組織の中で過ごしたことがなかった加奈さんは、約束のスケジュールを破ったり、提出物を忘れたりするなど、社会人としての基本的なルールが守れなかったのだ。オウムの中では、いい加減でいられたが、社会では通用しなかった。仕事は長続きせず、アルバイトや別のコールセンターなど職を転々とした。

「自分の力で生きていかなきゃいけないときに、どうしても小さいときから教団の生活形態の中で生きているので、普通の人と違う部分が出てくる。全体的にルーズというか、ズレているんです。教団の中で大人の指示で生きてきたのに、社会人になると自分で物事を決めて動かないといけなくなる。社会人は自分を律して生きないといけないのに、それが難しかったんです」

 仕事をサボっては、パチンコ店に入り浸った。加奈さんは「あの頃がいちばん、自堕落な生活を送っていた」と振り返る。

 加奈さんと教団の関係も岐路に立っていた。

 教団は2000年に「アレフ」に改称。その後、教団運営の主導権をめぐって、内部で対立と分裂を繰り返していた。社会人になっていた加奈さんは、道場に通うこともなくなっていたが、教団幹部たちの争いを冷ややかに見つめていた。