「教授は共産党のシンパで信用できない」
こうした不可解な血液鑑定を無視するように、1949年10月24日、那須容疑者は殺人罪で起訴され、同年11月2日から青森地裁弘前支部で裁判が始まる。検察側は冒頭陳述から「被告人は変態性欲者である」と断定し死刑を求刑。
血液鑑定の結果が決定的な証拠と自信満々に主張した。対して、那須被告は改めて無罪を主張。弁護側も「もし被告が犯人なら、被害者の血痕が付着したシャツを捨てずに逮捕されるまで着続けるわけがない」と至極真っ当な反論を展開する。
さらに前出の引田教授を血痕の経年変色の専門家として証人に呼び、「シャツの血痕とされる斑点は最近のものではあり得ない」と主張。これに、検察側は「引田教授は共産党のシンパで信用できない」などと実に的はずれな反論を繰り返した。
検察は、裁判で新たな証拠として、東北大学法医学教室の三木敏行助教授による鑑定結果を提出している。三木鑑定によれば、開襟シャツから「Q型」という特殊な血液型が検出され、この抗原は被害者のすず子さんのもので、よって那須被告が犯人である証拠になるのだという。が、その主張には矛盾があった。
引田教授が最初に見た際は「褪せた灰暗色」だった血痕が、三木鑑定では「赤褐色」に変化していたのだ。言うまでもなく、血痕が時間の経過とともに鮮やかになるはずがない。弁護側はこれを根拠に、血痕は捏造されたものであると強く主張した。
この主張を受け、裁判所は財田川事件や島田事件にも関わった東京大学の古畑種基教授に再鑑定を依頼。結果、ズック靴から血痕は発見できなかったものの、シャツの血痕については98.5%の確率で被害者のものと結論づける。しかし、この確率計算にも大きな問題があった。同教授は「那須被告が犯人である確率が50%」という全く根拠のない前提を置いたうえで計算しており、さらには「日本人全員が那須被告のシャツに血をつける可能性がある」とする非現実的な仮定まで行っていたことが後に判明している。
血液鑑定を主争点とした公判は30回開かれ、1951年1月12日、結審を迎える。下った判決は無罪。ただ、裁判長は「その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰する」とだけ述べて、一切の説明を加えなかった。この手抜き同然の判決に対して、傍聴人からは非難の声が巻き起こり、検事は席を蹴って退廷、被害者すず子さんの母は傍聴席で卒倒したそうだ。