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くだされた罰は…
検察側は「判決に理由が書かれていないのは違法」「血液鑑定の評価が不当」とし仙台高裁に控訴する。そして始まった第二審。
検察はそれまで主張していた「変態性欲者による犯行」を「変質者の犯行」に変更、求刑も死刑から無期懲役に引き下げる。そして、古畑教授を証人として召喚し、改めて「開襟シャツの血痕が98.5%の確率で被害者のものであることが那須被告の犯行の動かぬ証拠」と主張。弁護側が一審で指摘した血液の色の変化についても「個人の感覚の違い」と一蹴した。
結果、1952年5月31日に下った判決は、一審判決を破棄し懲役15年。
裁判長は「被告人にはアリバイがない」「被害者の母や周辺住民の証言から被告人が犯人と思われる」「開襟シャツについての松木鑑定、三木鑑定、古畑鑑定の結果は信用できる」などと認定した。弁護側の上告は最高裁によって退けられ、1953年(昭和28年)2月19日に刑が確定。那須さんは秋田刑務所に収監される(後に宮城刑務所へ移送)。
10年の服役を経て仮釈放となったのが1963年1月18日。39歳になっていた那須さんは出所後も縁者を頼って職を転々としながら、身の潔白を証すためかつての証人たちや弁護人たちを訪ね歩いた。が、成果は無し。友人は全て失い、絶望のなか浴場管理人の職を見つけ、1965年には遠縁の女性と結婚。暮らしも精神状態も安定し、雪冤への熱意も薄れ始めた1971年(昭和46年)、予想だにしないことが起きる。