もちろん、日本のスケート関係者のあいだでは伊藤は早くから注目される存在だった。日本スケート連盟でのちにフィギュア強化部長を務めた城田憲子は、選手の技能を測るバッジテスト部門に所属した1977年、名古屋に素晴らしい女子選手がいるらしいので将来的に有望かどうか見てきてほしいと言われ、まだ小学2年生だった伊藤に会いにいっている。
1969年生まれの伊藤は、幼稚園のころ名古屋スポーツセンターのスケート教室でフィギュアを習い始め、初級・中級・上級の全コースを10日の受講でパスすると、その教室のインストラクターだった山田満知子コーチから本格的に指導を受けるようになった。以来、めきめきと才能を開花させ、東京から訪ねてきた城田の前でも、高さといい滞空時間の長さといい見事なダブルアクセルを決める。シニアの女子選手でもまだほとんどがダブルアクセルが限界としていた時代にあって、それを易々とやってのける少女の姿に、いずれは多種類の3回転ジャンプをものにするに違いないと城田は確信したという(城田憲子『日本フィギュアスケート 金メダルへの挑戦』新潮社、2018年)。
小5で2回転、3回転ジャンプを軽々と
伊藤は小学4年生の終わりの1980年3月に全日本フィギュアスケートジュニア選手権に初出場で優勝する。5年生になった同年11月の第2回NHK杯には本来なら年齢規定で出場できないところを、世界のフィギュアスケート関係者にお披露目しようと特別招待され、競技終了後に登場すると2回転、3回転ジャンプを軽々と決めて会場を沸かせる。
当時の『週刊文春』では、《コーチに叱られようと練習がきつかろうと弱音を吐かず「スケートは遊びじゃない」と言いきるあたり“お嬢さん芸”と見られがちな女子フィギュアの選手としては健気だ》と伝えられている(1980年12月18日号)。もっとも、本人がのちに振り返ったところでは、大会での活躍も当時の彼女には純粋な「楽しみ」でしかなかったようだ。
山田コーチからは、たとえ優勝しても、スピードが不足してジャンプを失敗した試合などではきつく注意されたものの、順位が5位や10位であっても、練習してきたものを発揮できていれば「それでよし」と許されたという。1980年12月にはカナダでの世界ジュニア選手権に出場し、総合8位に入ったが、このときも伊藤は一番の思い出として、大会よりも雪遊びして楽しかったことを挙げている(高橋隆太郎『満知子せんせい みどり、真央、昌磨と綴った愛の物語』中日新聞社、2025年)。



