「絶対にオリンピックチャンピオンになるよ、この子は」

 初の海外遠征となったカナダでは、彼女が雪景色に惹かれてひとりで宿舎を出て行ってしまい、関係者を慌てさせるも、自力でタクシーで帰ってきたというエピソードが残る。試合でも物怖じせず、3回転ジャンプを何度も決め、現地のテレビ中継では解説者が「また跳びました!」と笑い転げながら「絶対にオリンピックチャンピオンになるよ、この子は」と言っていたという。

 折しも日本スケート連盟では、「伊藤みどりプロジェクト」と称して、彼女が22歳で迎える1992年のオリンピックでの金メダル獲得を最終目標とする10年計画が立てられていたという。計画では、それまでに経験を積むため、2度のオリンピックに出場するというアウトラインが引かれ、その一つひとつをかなえるため、考えられるかぎりの戦略と課題がより具体的に立てられた。

1983年12月、札幌で行われた世界ジュニアフィギュア選手権 ©文藝春秋

たった一度の転倒が分けた明暗

 10年計画における最初の五輪は、伊藤が14歳で迎える1984年のサラエボ大会だった。もっとも、この時代もオリンピックにはシニアの選手しか出場が認められず、その資格を得るには、当時は開催前年の7月1日(フィギュアスケートにおける年度始め)に14歳以上であることが条件だった。8月13日生まれの伊藤はサラエボ五輪の前年の1983年7月1日時点ではまだ13歳で、年齢が足りなかった。

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 だが、当時は特例として世界ジュニア選手権で3位以内に入れば出場資格を得られた。そこで日本スケート連盟は1983年12月の世界ジュニアを自国開催とすべく札幌に招致する。伊藤はこの大会で3位に入って五輪出場の条件はクリアしたものの、サラエボ五輪での日本の出場枠は1つしかなく、翌年1月の全日本選手権で総合2位に終わったためにけっきょく出場を逃す。

1983年12月、札幌で行われた世界ジュニアフィギュア選手権 ©文藝春秋

 当時のフィギュアスケートでは、ショートプログラム(SP)とフリーと並んで規定(コンパルソリー)という種目があり、伊藤はこれが苦手だった。このときも規定では苦労したうえ、続くSPでは前年の世界ジュニアのあとで右足首を痛めた影響から、最後のダブルアクセルで転倒してしまう。フリーでは3回転ジャンプを決めて追い上げたが、それまでの失点を埋めるまでにはいたらなかった。たった一度の転倒が大きく明暗を分けてしまうフィギュアスケートの怖さを伊藤はこのとき初めて知ったという(伊藤みどり『タイム・パッセージ~時間旅行~』紀伊國屋書店、1993年)。

 五輪には出られなかったが、代わりに1984年3月にカナダで開かれた世界選手権の代表に選ばれ、7位に入賞した。(つづく)

次の記事に続く 《身長145cmの女王》伊藤みどりは何がすごかったのか? 当時の常識を覆した“異次元のジャンプ”…たった一人で世界のフィギュア界に“革命”を起こすまで

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