恐山のイタコマチは夏、秋の祭礼時に行われる。1990年代以降でも、津軽は川倉賽の河原地蔵尊、上北郡おいらせ町の法運寺などでこうしたイタコマチは行われていたが、現在前者はイタコではなくカミサマ(編集部注:青森県の津軽地方で信仰されている憑依巫女。イタコが死者の霊を憑依させる死者の口寄せを行うのに対し、カミサマは神からのメッセージを伝えるために神を憑依させる)が1人で取り仕切り、後者は参加していたイタコが亡くなったことから、2010年代以降、祭礼の中止に追い込まれている。
イタコが恐山に登るようになった時期はあまりはっきりとしていないが、大正末から昭和初期と見られている。1939年に中市謙三が著した『恐山詣』によれば、「初め一人だったのが今は五人位いるといふ」との記述があり、つまりイタコが恐山にいて、そこで死者を呼び出してもらう風習の発生はそう古くはなく、太平洋戦争期を前後にしての発生と定着と考えられている。
戦没者遺族に求められ、紀行作家の目に留まったイタコ
先の大戦がもたらした膨大な戦死者の数は、死者の口寄せ需要を一気に大きくし、イタコは戦後、際立った活躍をみせた。当時はまだ新規でイタコとなる者が多くいた時代で、中村タケ女(編集部注:日本最後のイタコ)もこの時期にイタコとして独立した。
そして、イタコという風習に変化が現れるのもこの時期だった。戦後、大量にいた戦没者遺族の心にイタコのホトケオロシは必要とされ、青森県下の一般家庭や神社仏閣で盛んに行われていた。
そんなおり、恐山の祭礼時に行われているイタコの口寄せの姿が、当時文芸界で流行していた旅物・秘境探訪などの紀行作家の目に留まるのである。
もともと恐山は慈覚大師円仁が開いた地蔵菩薩を中心にした霊場・寺院であり、イタコの存在が必ず伴うものではなかった。多くの山岳信仰や祖霊信仰に言えることだが、恐山は「死んだ人の魂が登る先の山」という考えが下地にあり、1950年頃までの記述を見る限りは恐山そのものが死者の霊と会える場所という表現がなされていて、イタコの介在はない。
しかし、火山性ガスと荒涼とした岩場に覆われた風景は「賽の河原」という言葉にも現れるように、霊場としての神秘性にあふれており、その傍らで数珠を鳴らして死者の言葉を語るイタコの奇怪な姿は、この秘境の地へたどり着いた旅行者やメディアなどの「外部の目」に初めて発見され、彼らの手で、恐山の神秘性と宗教的景観の中の一コマとして紹介された。
これがイタコ=恐山のイメージの大本であると大道晴香などの研究者は指摘している。