二六と同じ日付では時事新報(時事)が社会面最下段の雑報で「無断家出の女学生」の見出しで、さらに東京朝日(東朝)も4面欄外に「女学生の家出」で短く報じているが、時事は「ハル」、東朝は「はる」と表記。いずれも大内宅に同居していると書いているうえ、時事は保護願を出した警察を日光署としている。当時の新聞は締め切り間際のニュースを欄外に載せていた。日本女子大学は1901(明治34)年、成瀬仁蔵を中心に開校した日本初の女子大で、日本における女子高等教育の先駆け。「良妻賢母」づくりを目指し、当時「女子大(学)」といえばこの学校を指した。
近代的な美人令嬢
元毎日新聞記者で女性史研究家の小林登美枝『平塚らいてう 愛と反逆の青春』によると、大内丑之助は明子の父の義弟で当時、法制局書記官。世事に通じており、二六の記事通り、彼の意見で保護願を出した。同書によれば、それには次のような家出人の「人相書」を付けていた。
容貌 中肉にして身長五尺(約152センチ)ばかり。色浅黒く、目大きく、鼻筋通り、口元尋常にして怜悧(※)の相を具ふ
衣服 茶縞お召、縮緬の書生羽織にオリイブ色縦縞の糸織綿入、鼠色赤味帯びたるカシミヤの袴、狐色毛皮襟巻、小型片側銀時計、黒半靴、小遣い三、四円(現在の約1万1000~1万5000円)、生来男勝り(原文のまま)
※怜悧=頭がよく利口なこと
父定二郎は高級官僚で家は知的上流階級。この「人相書」からも「近代的美人令嬢」の姿が浮かぶ。この段階で一つ分からないのは、なぜ「華厳の滝」に行ったと考えて栃木県の警察に保護願を出したかだろう。『平塚らいてう 愛と反逆の青春』には、21日午後11時ごろ、母親が家出に気づき、夜半すぎに大内が駆けつけてきたとあるから、かなり対応が早い。時事の記事は「宇都宮二十二日電話」となっており、保護願は22日の早い段階で出され、そこから情報が新聞数紙に漏れたと分かる。
その間のいきさつは翌3月24日付東京日日(東日=現毎日新聞)が「女子大學(学)出身 令嬢の行衛(行方)」で報じた。
「華厳の滝にでも投身しないだろうか」
「厳父平塚氏は令嬢の家出の時刻から推測して、遠方に行くなら深夜の汽車は東海道線以外にないとして、直ちに神奈川県と静岡県などの警察本部へ電報で捜査を要請した。22日になって、もしやかの藤村操の轍を踏んで(=失敗を繰り返して)華厳の滝にでも投身しないだろうかと心づいたことから同地の警察にも保護願を提出。大内氏から友人である栃木県警察部長に特に捜査を依頼した」
二六の記事とは「知事」と「警察部長」が違っているが、「華厳の滝」と「藤村操」が出てきたのは不思議ではない。というのも――。


