1903(明治36)年5月21日、当時旧制一高(現東大教養部)の学生だった藤村操が華厳の滝に投身自殺した。満16歳。傍らの木に「巖(巌)頭之感」と題した遺書が彫られていた。「悠々たる哉 天壌(天地)、遼々たる哉古今、五尺の小軀(躯)を以て此大をはからむとす」の書き出しで「万有の真相は不可解」とし、人生に対する煩悶をつづっていた。
一高で藤村に英文学を教えていた夏目漱石をはじめ、文学者や新聞などのメディアも大きく取り上げ、彼の死は当時言われた「煩悶青年」の死として社会に衝撃を与えた。後を追うように華厳の滝に身を投げる人が続出。4年間に自殺を図ったのは185人、うち既遂は40人に上ったという。「『巖頭之感』は、この時以後数十年にわたって、日本の青年が人生の意義を内省的に考える時の一つの型として伝えられた」=伊藤整『日本文壇史7 硯友社の時代終る』。5年後の段階でも「若者の家出―自殺―華厳の滝」という連想は広く社会に生きていた。
「私は家庭をつくる人ではありません」
その東日は明子の人となりについてもかなり詳しく書いている(まだ「春子」と誤記しているが)。
生来勝気の人で、いわゆる男勝りの性質。お茶の水高等女学校(女子師範学校付属高等女学校=現お茶の水女子大付属高)入学の際、両親から「まだ年もいっていないのに」と止められたが、それを聞かずに受験。見事合格し、クラスで最年少だった。また、小学校在学中、姉が卒業式で優等の賞品をもらって帰り、両親に見せた後、半分を明子に分けようとしたが、頭を振って「私は要りません」と言った。「なぜか」と聞くと「私も取りますから」と返答。その通り、次の学期から常に優等の成績を続けたという。
幼少のころから読書を唯一の楽しみとし、毎晩必ず午前0時すぎにならなければ寝床に入らないほど。書物は文学はもちろん哲学、宗教など、もっぱら精神的な内容の本を愛読していた。家出した後の書斎を見ると『禅学要鑑』『新・旧約聖書』『一葉全集』『国文学全史』『紅葉全集』『白楽天詩集』『陶淵明詩集』『碧巌集』『ツルゲーネフ英訳小説』などが書架に重ねてあった。またひそかに某僧に参禅しているということで、日常机の上に線香をたいて読書。キリスト教の説教も時々聴きに出かけるが、教会は決まっておらず、ただ研究する態度で臨んでいたようだ。
女子大学に入学しようとした時、父は「女子にそのような学問は不必要」と反対したが、「ぜひ」と懇望したので、「それなら条件付きで許す。文学にのめり込まず、寄宿舎でなく自宅から通うこと」を言い渡した。そうして同校で学び、昨年卒業後は津田梅子女史の(女子)英学塾(現津田塾大)に入ってもっぱら英語を研究。いろいろなところから縁談の申し込みがあるが「私は家庭をつくる人ではありません」と答えて承諾しなかった。「それでは将来どうするのか。覚悟を」と両親が尋ねると「文学上の著述でもして独立生活をします。そのうえで相当の地位になったら結婚してもようござんす」と答え、結婚話には少しも耳を傾けなかったという。



