「生田弘治氏」はのちにニーチェの翻訳などで知られる鳥取県出身の文芸評論家・翻訳家、生田長江のこと。図らずもここで「森田某」が登場した。それもそのはずで、「森田某」は本名・森田米松、号を白楊、のち草平といい、生田長江とは一高以来の友人で「同志」。以後「草平」で統一する。
当時、2人は明子に文学を指導しており、当然、生田は明子と草平の関係もある程度知っていた。このあたり、長江は半分「芝居」をしていたのではないか。
“家出の原因”として報じられた内容は…
二六は家出の原因も推理している。
家出の原因
本紙の探知したところでは、家人や親戚の話から明子はどこまでも温良な子女で、今回の家出についても原因は不明のようだ。だが、明子は厳格な家庭に育ちながら、夫を選ぶのに何がしかの理想を持っており、年が23歳なので両親は熱心に結婚を勧め、明子は意に満たない縁談に鬱々として楽しまず、常に家にこもりがちなのも1つの原因かもしれない。家出の裏には極めて錯綜した要因がひそんでいるようだ。
こうして見ても、この事件の報道では二六と萬朝報が先行していたことが分かる。二六は一時衆院議員も務めた秋山定輔が、萬朝報は作家・翻訳家の黒岩涙香(周六)が創刊。山本武利『新聞と民衆 日本型新聞の形成過程』によれば、明治中期、二六は三井財閥の批判キャンペーンなどを展開。萬は有名人の妻以外の女性とのスキャンダルを取り上げた「蓄妾の実例」などを掲載し、「三面新聞」(大衆紙)として人気を競った。
日露戦争後、二六は秋山の「露探」(「ロシアのスパイ」という当時の流行語)騒ぎから部数が激減。萬朝報も戦争中の反戦主張から転換して経営的に苦しんでいたが、こうしたスキャンダルについては根強い情報網と取材経験があったとみられる。
翌3月25日付で報道のトーンは一変する。前日の24日、明子が発見、保護されたが、彼女は1人ではなかった。(つづく)



