連日の報道合戦で関心が高まり、「事件」の話題は全国に広まった。作家で詩人の生田花世は、徳島県の実家で「事件」を報じた大阪の新聞を見た父親が「東京にはすごい女が登場した」と言ったのを覚えているという(「国文学 解釈と鑑賞」1963年9月号座談会)。

 二六新聞(以下、二六)は3月27日の社説「青年男女の思潮」でこの「事件」と、ちょうど同じ時期に起きていた美人写真コンテストで「日本一」になった14歳の市長令嬢が中学を退学させられた「事件」を論じた(「文春オンライン」2024年3月31日配信「美人写真コンテスト事件」を参照)。こうした「不健全な思潮が青年男女に喜ばれるのは社会にも原因があり、そのことを理解しない頑迷な教育者には猛省が必要」などとした。

 著名な教育者や作家による論評も新聞、雑誌で相次いだが、百家争鳴。世論は、やはり「いまどきの若い者は……」と嘆き、あきれ、怒る声が主流だったようだ。萬朝報の総括記事と同じ3月29日、二六の1面には「藤村操『オイ森田君 華厳は此方(こっち)だ此方だ』」という説明を付け、学帽制服姿の藤村操の骸骨が呼んでいるをよそに、「はる子」と「森田」が塩原方面に向かう後ろ姿を描いた、やや悪趣味なポンチ絵が載った。

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教育者らからは多くは批判的な見解が示された(時事新報)
事件を取り上げた東京二六新聞の悪趣味なポンチ絵

事件をモデルにした小説を発表

「事件」から8カ月余り後の1908年12月4日、東京朝日新聞(以下、東朝)3面に「小説豫(予)告」が載った。「煤煙 文學士 森田草平」。「小説『煤煙』を書か()と思()立ちてより既に半歳(半年)、其間(その間)余の苦悶は如何にして好く書かむかと云ふ(言う)に(あら)ずして、如何にして書き得るか、(つい)に書き得ずしてをはる(終わる)に非ずやと云ふにありき」(原文のまま)と著者の言葉にある。

「事件」をモデルにした『煤煙』は翌1909(明治42)年元日紙面から同紙に掲載され、事件の記憶も新しかったことから読者に好評でヒット作となった。

事件を小説にした『煤煙』(森田草平、岩波文庫)

「事件」後、漱石宅に居候していた草平は「事件」を小説にすることを思い立ち、草平を心配した漱石も「小説を書くより道がない」と応援した。漱石は東朝で『虞美人草』に続いて、「事件」当時は『坑夫』を連載していた。漱石は草平が書き始めていた小説を東朝に売り込み、東朝も「売れる」と見込んだのだろう。平塚家の反対を押し切っての掲載だった。

森田草平が事件を小説化した『煤煙』の連載予告(東京朝日新聞)

 一方、漱石も1908年9月から東朝に連載中の「三四郎」に登場する里見美禰子に明子の姿を投影したといわれる。草平から明子のことを詳しく聞いた漱石は「そういうのを『アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)』というのだ。ヒポクリットはいわゆる偽善者ではなく、自分では知らずに別の人間になるという意味だ」と語ったという(『日本文壇史12』)。

 草平はこうして作家の道を歩み始めた。では明子は——。