「青鞜社」を仲間と結成

「事件」から3年後の1911(明治44)年9月、「女流文学の発達を図り、自己の解放を企図して組織された進歩的婦人グループ」=『日本近現代史辞典』)=である「青鞜社」を仲間と結成。機関誌「青鞜」を創刊、筆名として平塚らいてう(雷鳥)を用いるようになる。

 日本の女性解放運動の草分けで、「新しい女」が流行語となり、「元始、女性は実に太陽であった」という明子の発刊の言葉はいまに残る。「女性だけの文芸誌を」と勧めたのも、「青鞜」の名前を考えたのも生田長江(ちょうこう)だったという。

「青鞜」創刊号の表紙

 事件後も明子と草平は会っていたが、次第に遠ざかった。明子は『煤煙』での描かれ方に不満があったようだ。「新潮」1910年8月号の「小説に描かれたるモデルの感想」で、明子がモデルの小説中の「朋子」について「実際のあなたがよく現れていると思いますか?」と問われ、「現れていません。本当の私とは違っています。書く人に私という人間がよく分かっていなかったのでしょう」「きのうの私はきょうの私ではない」と答えている。

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 明子は年下の画家の男性と長く事実婚を続け、彼女が生計を支え続けた。「事件」から7年後の1915年4月、時事新報に「事件」をテーマにした『峠』の連載を始めたが、妊娠のつわりがひどく、中断したまま終わった。

未完に終わった平塚らいてう(明子)の小説『峠』の第1回(時事新報)
後年の平塚明(平塚らいてう) 国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

「理想喪失の時代」に

 この時期の新聞各紙を見ると、読者を引き付けるための「美人」の写真が目立つ。国内外の女優、芸妓、上流女性……。化粧品の大きな広告も。社会面は男女間の事件・スキャンダルを中心に殺人、強盗など血なまぐさいニュースが多く、家庭欄は「淑女はどうあるべきか」などを取り上げている。日露戦争の「惨勝」から3年。国家の能力を超えた軍費と兵士の損耗で得た勝利の代償は大きく、日本人の間には目的を失った停滞感と無力感、ふわふわした退廃が広がっていた。色川大吉『明治の文化』は「理想喪失の時代」と表現。流行歌の歌詞で「涙」「孤独」「さすらい」が大勢を占めたとしている。