想像してみてほしい。森からひとりで脱出するゲームをプレイするとき、画面に自分の上半身しか映っていなかったら、どちらに進んでよいかわからないだろう。右に曲がると森から離れられるのか、それとも奥に進んでしまうのか、見当もつかない。そうなると、「この装備で十分だろうか」「果たして森から抜けることが正しいのか」と自分のことばかり考え、答えが出ない。

  全体像がわからなければ、誰もが道に迷う。仕事も同じだ。なんのために、どのあたりでなにをやっているかが把握できなければ、五里霧中。答えが出なくて当然なのだ。

 突破口を見つけたいなら、仕事の全体像を映してみよう。そして考えるのだ。そもそも、仕事ってなによ。私の労働に、なぜ対価が発生するのよ、と。

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「給与=我慢料」は大きな誤解だ

「給与は、労働という嫌な時間の我慢料だ」と言う人がいる。本当にそうだろうか。

 誰かの我慢に金銭的価値がつく理由が、私にはよくわからない。「嫌な思いをさせて申し訳ない」と、雇用主から慰謝料が? そんなわけはない。

 給与はどこからやってくる? 大河の一滴を辿ると、たとえ嫌なことを我慢してやったとしても、その時間に対価が支払われたのであれば、あなたの労働が誰かの役に立ったということだ。あなたの労働のおかげで楽しい思いができたり、助かったり、できないことをやらずに済んだ人たちがいたのだ。

 考えてもみてほしい。部屋の隅で3時間、嫌々正座をしたとしても、ギャランティは一切発生しない。それは「仕事ではないから」ではなく、「誰の役にも立っていないから」だ。我慢自体に対価は発生しないシステム。よく考えれば当たり前のことだが、これを忘れてしまう人は少なくない。

 仕事における労働とは、他者の役に立つ行為を指す。「賃金を得るための活動」と定義されがちだが、賃金が発生したのは、他者の生活をより楽しく、簡便にできたから。価値ある何かを生み出せたから。これを忘れないこと。自分のことばかり考えると、今日は誰かの役に立てたか? の視点が頭に浮かばなくなってしまう。

 仕事は、「自己実現」や「稼ぎを得るため」だけでなく、「労働を通して誰かの役に立ち、社会に自分の居場所を作る行為」でもある。

 その行為に支払われる対価で、今度は自分が他者になにかをしてもらう。すると、誰かの居場所ができる。居場所ができれば、社会からこぼれ落ちることもない。