その他にも『思ひ出の記』を読むと、「これは史実どおりなのか!」「そこを広げたのか!」という細かな発見が多々あって面白いので、『ばけばけ』ロスを感じている視聴者の皆さんにはぜひ一読されることをお勧めする。
『ばけばけ』では、「ジゴク!」「アバヨ!」「~クダサレ」など、ヘブンのワードチョイスが面白くて、たびたびくすりと笑わされたが、実はこれらもちゃんと『思ひ出の記』に元ネタがある。
《それを見ると、直ぐ私の袂を引いて『駄目です、地獄です、一秒でさえもいけません』と申しまして、》
《東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました》
《『あの珍らしい不人情者の友達、私は好みません。さようなら、さようなら』》
《『色々の浴衣あなた着て下され。ただ見るさえもよきです』と云って、》
《無事で生れて下されと云う事を幾度も申しました》
などなど、ハーンの頑なさと、その反面、茶目っ気と優しさが感じられる記述がいくつも見られる。
実際ハーンはかなり偏屈で気性の激しいところがあったという。『思ひ出の記』の中にも、彼の感情の起伏の苛烈さを表す逸話が、いくつもしたためられている。それに比べてヘブンの人物造形はだいぶマイルドにしてあり、「茶目っ気」のほうを増幅させた感がある。演じたトミー・バストウの内側から滲み出る人間的魅力も大きく功を奏しているのだろう。
伝記ドラマではなく、「トキから見たヘブン」
『思ひ出の記』に記された「ハーンの性格」は、妻であるセツの目が捉えたもの。それに沿って「ヘブンの性格」の構成要素の多くも、「トキだけが知る」ものとして描かれている。だから当然、ヘブンの作家としての顔、ヘブンが社会人として外部と関わるときの顔とは、少なからず齟齬があるのだろう。
最終回で描かれた「フロックコートの誤解」は、まさにヘブンの「外の顔」と「内の顔」を表現したエピソードだった。家では「内の顔」しか見せたくないヘブンが、出がけにトキから「西洋人らしく」とうながされて「外の顔」を強いられ、嫌な顔をする。トキはこのことを後悔し続けるが、実は、トキが「フロッグ(蛙)コート」に言い間違えるというドメスティックな出来事と、妻に感じる愛おしさがヘブンの心をほぐして、「シブシブ」身につけていた「外の顔」が、それほど嫌でなくなった、というエピソードだ。
偉大な作家・小泉八雲を外から見た伝記や評伝は数多あれど、誰よりも近くにいる妻から見た「ヘルンさん伝」は、世界に『思ひ出の記』一冊しかない。『ばけばけ』も同じなのだ。この物語の主人公はあくまでもトキであって、「トキから見たヘブン」という視点が終始貫かれていた。
『ばけばけ』はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の伝記ドラマではないし、文豪を支えた妻の内助の功の物語でもない。だから、ハーンを熊本の第五高等中学校に招いた当時の校長・嘉納治五郎や、ハーンが帝大を解雇された際、後任として教壇に立った夏目漱石などは、影すら出てこない。この2人の名は、『思ひ出の記』にもない。
『ばけばけ』で描かれるのはあくまでも、『思ひ出の記』でセツが綴ったのと同じ、「ふたりの日常」である。2024年初夏、制作発表の場でふじき氏がコメントした「取り立てて人に話すほどでもない他愛もない時間。そんな光でも影でもない部分に光を当てる朝ドラを書いてみたい」という姿勢が、第1回から最終回に至るまでブレることなく貫かれた。
一見軽々とやってのけているように見えるかもしれないが、これは相当に胆力がいることだ。ヘブンの成した偉業に派手にスポットを当て、わかりやすいイベントや目を惹く登場人物を出したほうが、作劇としてはよっぽど楽なのだから。


