「安易なドラマ性を求めない」というのも、作り手が『思ひ出の記』から得た哲学ではないだろうか。聞き書きであることを差し引いても、『思ひ出の記』のセツの語り口はとても淡々として、取り乱さず平らな口調(文調)で綴られている。それが彼女の矜持なのだと感じる。しかしながら、その落ち着いた言葉の奥底には、夫・ハーンへの深い愛と、最愛の人を喪った悲しみがしっかりと根を張っている。文体が淡々としているからこそ、かえってそれが際立つ。

 こうしたことが、『ばけばけ』の作劇に反映されているように思えてならない。あくまでも全体のトーンと空気感について教科書にしたのは『思ひ出の記』でありながら、それを実現させるための「見えない下地」として、作り手たちは果てしない量の小泉八雲研究の資料とも向き合ったことが窺える。

「熊本編」以降、ラス前の第24週「カイダン、カク、シマス。」に至るまで描かれたヘブンの作家としての苦悩は、小泉八雲の史実と彼の文学を深いところまで享受していなければできない表現だったように思う。ドラマチックな劇伴を鳴らして、「ガーン! 書けない!」みたいな描写はわかりやすいし、バズりやすいだろう。しかし『ばけばけ』では、真綿で首を絞められるようなヘブンの悶えが静かに、そして長らく描かれ続けた。ヘブンの苦悩が「ふたりの日常」の下層部に潜り込んで、ずっと存在していた。

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 これが物語終盤のヘブンの「うらめしさ」であり、トキにとってはヘブンの苦しみを理解できなかった後悔と自責が「うらめしさ」として描かれていた。

 悲しみも苦しみも、喜びも愛も、すべては日常の中で起こる。日々の小さな出来事の積み重ねの果てに、人はだんだんと、なめらかに変化していく。人の死さえも、日常の中で起こることであり、翻って、日常が人に死を受容させていく。

「毎日難儀なことばかり」「日に日に世界が悪くなる」

 ふたりの最後の瞬間を描いた第122回でトキは、ハーンが愛し、ヘブンも愛した夕陽に包まれながら、ヘブンが死した後でも「子どもとカルタして遊びます」「スキップします」と約束する。これに安心してヘブンは、トキが毎晩言っていた言葉を真似して「失礼ながら、お先、休ませていただきます」と静かに言う。まさに、ふたりが日常の力を借りて「死」を受け止めようとする姿だった。

『思ひ出の記』の終わりには、ハーンが亡くなる2週間前にふたりで出かけ、それが最後となった「散歩」の追憶が刻まれている。散歩で見て回ったあちこちの門を参考にして、家の表門を建てた。門はハーンが亡くなる2日前に着工して、《亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました》との文言で締めくくられている。

 なんと淡々とした日常描写だろうか。しかしハーンの忘形見になってしまった「表門」の描写が置かれていることで、なおさらハーンの不在感と、セツの静かな喪失感が迫ってくる。そしてこれもまた、日常を通じた「死を受容する過程」といえないだろうか。

『思ひ出の記』を基本理念として作られた『ばけばけ』の最後には、日常の中で人は少しずつ悲しみから立ち直っていくのだという、グリーフケアの視点が置かれた。

 人はどんなに深い悲苦の中にあっても、他愛ない思い出に少し笑えたり、蚊が手にとまったことで愛する人を思い出して泣き笑いしたりもする。『ばけばけ』最終回のトキの姿は、レジリエンス(人間が本来持つしなやかな強さ)という名の希望を表現していた。

「毎日難儀なことばかり」「日に日に世界が悪くなる」昨今。日常という身の回りを見つめ直すことで得られる喜びを描いた『ばけばけ』を胸に、明日からも人生を散歩していこう。

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