『ハムネット』

 今年のアカデミー賞が発表されたが、主演女優賞に関しては受賞を逃した4名は運がなかったとしか言いようがない。というのも、本作に主演して受賞を果たしたジェシー・バックリーが、あまりに圧倒的だったからだ。映画の内容も優れているが、それ以上にジェシー・バックリーの演技を堪能する作品になっている。

『ハムネット』

 彼女が演じるのは、シェイクスピアの妻・アグネス。序盤からシャーマン的な尋常でなさを醸し出し、早くも観る者を釘づけにする。中盤に迎える「ある喪失」を前後しての精神的に追いつめられる芝居も見事だ。ここまでの段階で、あらゆる演技賞にノミネートされるだけの価値がある。

 が、本当にすごいのは終盤だ。アグネスは、ある舞台を最前列で観ることになる。舞台上で繰り広げられる劇中劇は、詳しくは映し出していない。カメラが主に追うのは、劇中劇が進展するにつれて微妙に変化していくジェシー・バックリーの表情なのだ。これが圧巻だった。

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 彼女を観ていて思い出したのは、筆者が大学一年生の時のこと。基礎教養でとった「芸術学」の講義で、講師の先生が最初に教えてくれたのが、「なぜ人間は悲劇を創り、そして観るのか」というメカニズムだった。悲劇を観て涙を流すことで、怒りや哀しみに囚われた魂を浄化するのだという。そして、それを「カタルシス」と呼ぶのだと。舞台芸術の基本はそこにある。

 本作の終盤でジェシー・バックリーが表現しているのは、このカタルシスそのものだった。彼女の中から、ある感情がふっと抜けていく――その瞬間を、カメラが捉える場面があるのだ。変化は明確に伝わるのだが、演技自体はまるでドキュメントのように自然でさりげない。だが、もちろんドキュメントではない。彼女は演技としてやってのけている。そんな表現、並大抵―-どころか、プロ中のプロでもできるものではない。

 クライマックスにそれを持ってきたクロエ・ジャオ監督も大胆だが、それに完璧に応えたジェシー・バックリーには、いくら賞賛しても、し足りない。

『ハムネット』
監督:クロエ・ジャオ/製作:スティーヴン・スピルバーグ、サム・メンデス/出演:ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、エミリー・ワトソン、ジョー・アルウィン/2025年/イギリス/126分/配給:パルコ ユニバーサル映画/©2025 FOCUS FEATURES LLC./4月10日(金) 全国ロードショー